三島街中探検記 番外編 ジオツアー三島その1

ぽけ子

2012年08月14日 15:46

こちらの記事は、みしまぽけっとに2011年9月に掲載された記事を、一部編集し、再掲載したものです。


~ジオツアーって?~

三島の街中で不可思議なモノを見かけると掲載している街中探検記の番外編です。
2011年9月24日(土)に開催された静岡県地学会東部支部主催の『ジオツアー三島1』に参加してまいりました。
ジオツアーって耳慣れない名称だと思いますが、ジオ(地球とか大地という意味)を観て・聞いて・体感するツアーです。

『ジオツアー三島』は、地形・地質的な視点で三島宿を観察と題し、第一回目は、三島宿の地形・地質・歴史遺産・石造物を、静岡県地学会の増島淳氏と三島市立郷土資料館の館長鈴木敏中氏の解説を伺いながら、街中を歩いて廻りました。


朝の9時半に、三島市郷土資料館前に集合しましたのは、定員より1名多い21名。

一般の参加者の他にも、日本大学地学の加藤教授、『ふるさと三島』の著者土屋氏、三島語り部の会の斎藤氏、ふるさとガイドの会、三島里山倶楽部のボランティアの方など、それぞれ専門知識をお持ちの方々も多く参加していらっしゃいました。
増島氏がお話しされている間にも、それぞれの専門分野で補いながらより深い解説をお聞かせいただきました。


豆半島ジオパーク推進事務局公式HPより転載

まず、三島という街を形成している大地の成り立ちを教えていただきました。2000万年前海底火山群だった伊豆半島が、フィリピンプレートに乗って約400kmも北上し、本州と合体して出来た地層に、丹沢山地の浸食による堆積物や箱根山の巨大噴火による火山灰・軽石などの堆積物、そしてたび重なる富士山の噴火による溶岩流と御殿場の土石流などにより、この地にいく層にもにわたる地層を形成しています。

まり、伊豆半島と本州を結ぶ、三島のあたりは、元々海岸線があり、そこに丹沢山地の堆積物、箱根山などの火山からの噴出物、富士山の溶岩流、そして御殿場からの土石などで、幾重にも重なった地層によって成り立っていることがわかりました。そしてそれらが、街中に流れる湧水や境川・狩野川の流れにより、削られて高低差を生みだしています。今回のジオツアーでは、その地面の高低差を歩きながら直に感じ取るることが出来ました。


~岩の研究編~

楽寿園内にある三島市民俗資料館前の受付で、参加料500円を支払い、皆さんの集合を待っている時間に、石の標本を見せていただきました。

  

この4つの種の石が、三島の石造物の大半を占めるのだそうです。伊豆半島が海底火山だったころの火山灰などからなる石で、現在では、沼津アルプスと呼ばれる山々の近くから採掘される、通称『伊豆石』と呼ばれるものだそうです。



石造物の必要とされる強度や用途により、それぞれ使われる石材が異なります。おおまかに分けて、石灯籠などに使われるのが、柔らかく細工しやすい長岡凝灰岩の中部層(硫黄により緑化し青みがかった石、写真左の大きな鉢)と上部層(薄褐色、写真右の台形)の石です。



大井凝灰角礫岩は
、黒みがかって石粒が交じった石で、強度があり、風化しにくいので、土倉の壁などに使われました。



白色で上質とされている江の浦白色凝灰岩は、昔は、名古屋や東京に運ばれていたため、昭和の時代に入ってから、三島の地では、壁な
どに使われる様になりました。

いままで、史跡を訪れても、石灯籠などを見かけることはあっても、それが海底火山だったころの岩から出来ているなどと思いもよりませんでした。

三島宿はたび重なる火災と地震などの自然災害によって、多くの古文書や建築物の倒壊などが相次いだため、その歴史を伺い知ることが難しいとのことです。それでも、三島史を研究されている方々の地道な研究から、様々なことが分かってきています。


~溶岩編~

なかなか歩きだ
さないので、本題のツアーの紹介になりませんでしたが、ここから実践編です。

    

集合場所になった楽寿園内が、ジオサイト(
ジオの見どころ)満載なのは、楽寿園を訪ねられた方なら百も承知のことと思います。1~1.7万年前に富士山のたび重なる噴火により、地底のマグマが流出し、幾重にも層を重ね三島後に流れつき、ところどころに溶岩塚(※)を作り、また中に含まれていたガスが噴出するなどして溶岩洞穴を作り、様々な地形となって地上で大いなる大地の力を見せつけてくれます。
上左の写真の溶岩洞穴は、幾層も重なった溶岩の跡が観てとれ、ちょうど解説されてらっしゃる増島氏の腕のところの層では、冷えて固まる前に次の溶岩の流出があったため、下部にたわんだ形で固まったそうです。



その他にも、富士山の様な粘性が小さく、さらさらな玄武岩質マグマが固まる際に良くできる縄状溶岩なども、その形状が良くみてとれます。
   
 

楽寿園内にある石造物(石灯籠や石橋)なども、~岩の研究編~でご紹介したさまざまな岩から作られています。中には、小松宮様がご造営の際、関西からお持ちになった花崗岩や非常に高価な鞍馬石などで造られているものもあります。
年代を経たものは、表面を見ただけでは、分かりにくく、文化財に指定されているものは、削って調べることもできません。今回解説していただいて、石の違いなどを注意して見る様になり、気づいたことも多くあります。


※溶岩塚とは…溶岩流の表面の部分が固まっても、内部はパイプ状になっており、末端付近の表面が押し上げられる作用により小丘となったもの

いよいよ、楽寿園の外へと歩き出しましょう。



~湧水編~

三島の街は水の街。富士山の伏流水が、そこかしこで湧き出る素晴らしい街です。

  

白滝公園にある
見事な形状の溶岩塚(写真右)を観ながら、例年になく水量の多い桜川沿いに、鏡池に向かいました。かつては、三嶋大社を参拝される方が、その身を清めたという鏡池は、涸れて朽ち果てていたものを、町内の方々や地元の企業の方の協働により、小さな公園として整備されました。現在では、NPO法人グラウンドワーク三島のスタッフの方々が維持管理されています。今回のツアーで伺った時は、参加されたふるさとガイドの会の方も驚くほど、こんこんと湧水が湧きだしていました。

これ
ら街中に湧き出る湧水は、三島溶岩流のなかの隙間を通り、その溶岩が途切れた所から湧き出します。鏡池の廻りにはかつてたさんの湧水地点がありましたが、今ではかろうじてこの鏡池と菰池公園で、水が湧き出る様を見れるにとどまります。菰池公園は『街中で湧水を満喫できる三島は、自然の宝庫』でご紹介しました。

   

これらの湧水の影響で、三島の地は削られ、御殿川流域は、三島の地でも非常に低い場所となっています。旧町名久保町(現在の中央町付近)は
、窪地からきているという説もあります。この地形の俯瞰を、生涯学習センターの屋上から拝見することができました。
(通常は、立ち入り禁止区域です)
 
  

ツアー
の最後に訪れた楽寿園脇の浅間神社には、富士登山の三島からの起点があり、やはり登山される前に身を清めたと言われている池があります。ここ最近は、湧水が枯渇していたのですが、今回訪れた際は、満々と水をたたえていました。


~石造物・史跡編~


 三嶋大社内の唯一現存する三島七木大楠の木

三島は神社・仏閣が多い街だと思っていましたが、溶岩流があったため、人があまり住めず、その様な施設が集まったということでした。

   

心経寺は、大宮町にあるお寺です。臨済宗妙心寺派に属し、あるとき住職が国家の平安無事を祈って三嶋大社の神前で般若心経を唱えていると、不思議なことに心経(般若心経)が空から舞降りてきたのでこの寺の名を心経寺と改めたという不思議な由来のあるお寺です。(三島アメニティ百科HPより)こちらの外壁は、『その2 岩の研究編』でご紹介した、大井凝灰角礫岩という、小石が交じった黒っぽい石でできています。中の鐘楼は、三島溶岩が使われていて、縁に刺繍のブランケットステッチの様なとても見事な細工が施されていました。 

   

三嶋大社の境内には、御殿場泥流が運んできたという巨石の祟り石や、三島市内の中で年代の分かっている石灯籠で最古のものなどを観る事が出来ました。(その後の調査で更に古い石灯ろうが見つかりました!)三島の石灯籠などの石造物の多くは、たび重なる震災で、倒壊・修復を重ねているため、一部違う石などが使われている場合が見受けられました。造った時と、修復した時では、手に入る石もさまざまな様です。

   

  


原神社三石神社、伊豆国分寺、本覚寺、長円寺など市内の史跡を巡りながら、今までとは違う角度で、観る事ができました。


  



また、街中にある石倉やかつての三島保健所跡の石塀など、普段気にもしなかった建物にも大地(ジオ)の恵みが見られる、三島の街は恰好
のジオサイト(大地の恵みを感じ取る場所)の一つなんです。

平成21年7月に川勝静岡県知事が提唱した伊豆半島ジオパーク構想は、これらの大地の恵みを知り、守り、活用し、次世代へ伝えて行こうとするものです。

詳細は
岡県のこちらのページ⇒ http://www.pref.shizuoka.jp/kikaku/ki-520/jiopa-ku.html
伊豆半島ジオパーク構想の公式HP⇒ http://izugeopark.org/ でご確認下さい。

           

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