ジオサイト守山(自然と歴史) その②

ぽけ子

2013年03月20日 09:16



守山に向かう途中、国道136号を超えて、ちょっと入ったあたりに、『伝・政子産湯の井戸』と『伝・堀越御所跡』があります。



政子産湯の井戸は昭和30年代頃までは水が湧いていたそうですが、今は水は湧いていないそうです。詳しい調査が進んでいないのですが、古くからある井戸であることから、政子達も使ったのではないかということで、伝の文字がついているそうです。
堀越御所跡は、室町幕府8代将軍の足利義政が関東を将軍直轄領とするため、弟の政知を派遣するのですが、鎌倉に入れずこの地に館を構え堀越公方と呼ばれたそうです。その子茶々丸が跡を継ぎましたが、北条早雲により急襲され、堀越公方が滅亡し、「戦国時代」が幕を開けたとのことです。

狩野川が見えてきました。丁度この辺は、狩野川の中流の中でも最も河道が狭い狭窄部とされていて、狩野川台風の折、狩野川が氾濫した原因の一つであるとされています。この場所からはちょっと見にくいのですが、南南西方向の伊豆の国市墹之上(ままのうえ)に狩野川放水路があります。沼津市の口野とを結ぶ全長2980m、流量は2000m3/毎秒、氾濫防止のショートカット水路です。狩野川の氾濫が予想される大雨の際、水門が開けられます。そのたびに江の浦湾の魚養殖に被害を出し、補償金を支払うこととなりますが、この放水路の存在は、狩野川流域の人々の暮らしを守っています。

そして、いよいよ守山公園横に歩を進めると、北条館跡です。
こちらは、囲いだけはありますが、看板も整備されていません。堀越御所跡もフェンス等を張り巡らせて保全されていますが、理由はわかりませんが、観光用として整備されることなくあまり知られていません。ただ空地が広がっている様に見えます。狩野川の氾濫を避けるため、日当たりが悪い北向きに館が建っていたとされ、幾度となく建て替えられていたとされています。
北条とはもとはこの辺の地名だったそうで、田方平野は肥沃な農耕地であったので、古くから条里制が敷かれており、現在の伊豆長岡駅あたりは、南条郷と呼ばれていたそうです。そして、この北条の地に館を構えた北条氏は、源頼朝を擁護し、鎌倉幕府の創立に尽力し、後は執権を握る等時代の舞台を飾りましたが、鎌倉幕府滅亡の後は、徐々に勢力を失っていったそうです。

歴史にお詳しい方はご存知だと思いますが、北条早雲は韮山に居城を構えた戦国時代の武将ですが、北条氏とは縁もゆかりもないそうです。北条の名も、早雲自体は名乗ることなく、伊勢家が北条姓を称したのは盛時の嫡男・氏綱からだそうです。通例として、伊勢盛時も遡って北条早雲と呼ばれているそうです。



何を採取されているのかと思えば、ノビルでした!
そして、守山の周囲を廻りこみ静岡県立伊豆中央高校の手前の古川のほとりを進みます。

 

真珠院です。室町時代に先述した“堀越公方”こと足利政知が創ったといわれ、県内最古の五輪塔(「定仙大和尚塔」1302年の号あり、安山岩)と八重姫の伝説が残る寺院です。

 

八重姫の伝説とは…
伊豆・蛭が小島に配流された源頼朝の監視役としては、北条時政とともに伊東祐親が命じられた。八重姫は伊東祐親の娘で、伊藤祐親不在の内に頼朝と結ばれ千鶴丸をもうけたが、祐親が戻り平家への恩義と娘への愛との葛藤の末、八重姫を館へ連れ帰り、まだ幼き千鶴丸を水に沈めました。頼朝は北条の館へ逃れましたが、八重姫は頼朝を忘れられず、六人の侍女を連れ北条の館へ訪れますが、頼朝は自分の姪にあたる政子と契りを結んでおり、ひと目会うことも叶いませんでした。愛する人のもとにも、伊東祐親のもとにも戻れず、守山南麓を流れる狩野川に注ぐ支流にあった激流渦巻く真珠ケ淵に、「吾は不幸にしてこの世を去るも、魂は長くこの土に留まって女人の守護神とならん…」と誓願を込め、梛(なぎ)の一枝を手折って身を投じたとのこと。六人の侍女たちも帰路の大仁田中山の近くで自害し、女塚が残っている。

 

真珠院には、八重姫を供養するために供養塔が建てられ、梛の枝が手向けるために木が植えられ、せめて梯子があれば救えたものをと手作りの小さな梯子を供えて供養した梯子供養の習慣が今も続いています。昭和47年の七夕豪雨により損壊しましたが、地元有志によりここに再建された御堂の前には、願掛け石があり、縁結びと子授けの神として親しまれているそうです。頼朝は政略的な意味もあって監視役二人の娘と契りを結んだとの説もありますが、真実は歴史のベールに包み隠されています。(なんか、ちょっと今までの頼朝像と変わって来たなぁ。)




御堂の裏手には板状溶岩が見られます

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