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2012年08月14日

三島街中探検記 番外編 ジオツアー三島その2


2011年10月15日(土)に予定されていた静岡県地学会・東部支部主催の『ジオツアー三島2』、天候不順のため、翌16日(日)に開催されました。
今回は、三島宿西部の地形・地質・歴史・石造物の観察と第し、今回初参加の方を十数名含む19名ほどの参加者をむかえ、絶好のウォーキング日和(少し暑かった…)の中、始まりました

  

集合場所となっている三島郷土資料館のある三島市立公園楽寿園内の小浜池は、例年になく湧水がこんこんと湧き出ており、満水に近い状態です。案内者の増島淳氏(静岡県地学会)と鈴木敏中(郷土資料館館長)の解説を伺いながら、楽寿園の南出口より出発しました。

   

三島七石の一つ“市子石”は、三島国分寺の参道“阿闍利小路”にあります。

 市子とは、 霊を呼び寄せる巫女さんのことで、この石を通じて天候や将来のことを占っていたと伝えられています。もとは小路の入口にありましたが、今の場所に映して保存されています。
この大きな石も、御殿場泥流に運ばれて、三島の地に辿り着いたものだということです。

    

次に訪れたのが加屋町にある林光寺でした。
林光寺は、東海八十八ヶ所の第七十番の観音霊場の礼所であり、西国三十三ヶ所の観音様が奉られています。こちらの観音様は長岡凝灰岩・上層部で作られていて、観音堂には、入江長八の弟子の手によるこて絵が施されています。境内には、様々な地質の石造物があります。


東海道の旧道を下っていき、清水町との境にある千貫樋があります。千貫樋は、その昔、農業用水を引く為に伊豆と駿河の境を田畑より低い地を流れる境川の上に架けられた樋です。長さ42.7m、幅1.9m、深さ45cm高さ4.2mあります。創設当初は、木の樋であったと言われていますが、大正12年(1923年)の関東大震災で崩落したため、その後の復興で鉄筋コンクリートで再建され、今日に至っています。

   

住宅街を抜けて清住緑地にやってきました。湧水がコンコンと湧き出る玉川池(丸池)では、地中に堆積したカワゴ平軽石が、湧水によって地中から吹きあがる様子が観てとれました。カワゴ平軽石は、天城山万三郎岳の北斜面で約3,200万年前に起きた大噴火によって広く降り積もった火山灰によるものです。白色の軽石が特徴だそうで、湧水の中で白くキラキラ輝く小石状のものが、楽しげに水の中を踊っていました。

   

この清住緑地の近隣の個人のお宅の庭先に格好のジオポイントがあります。大地の歴史をかいま見れる場所を露頭(ろとう)とい言います。その重なる地層を観察して、この周辺の大地はどのように形造られたかを推察していきます。

   

農業用貯水池である丸池用水の横を通り、清霊神社へ。こちらの礎石は、富士川系の転石で造られています。三島・清水町付近では、珍しい石質だそうです。


国道1号をわたり、いよいよ三島市のお隣、駿東郡清水町が誇る柿田川公園です。

ジオ(大地)は、市町村で区切られるものではなく、三島の周辺の地域は、その物語を語るためには、切っても切り離せません。ここに「伊豆は一つ」と静岡県の川勝知事が提唱する、伊豆半島ジオパーク構想の良さが現れます。市町村で分断されることなく、全ての地域を語ることで、伊豆半島のジオ(大地)の恵みが感じ取れるのです。

  
   
柿田川は清水町のほぼ中心部を南北に流れる、延長1.2kmの狩野川の支川です。富士山周辺で降った雨水や雪どけ水が地下水となり、この柿田川の湧水地で湧き出しています。大小70余りの湧き間から湧き出す水量は1日約100万トンです。柿田川の水は、水道水の種別では、1級にあたるきれいな水で、水温は年間を通じて15℃前後と一定で、流量も年間を通してほとんど変化がなく、安定しています。

   

富士山からの三島溶岩がこの地で固まり、その溶岩層の末端部から清らかな水が湧き出してくるのは、三島の小浜池や白滝公園で見られるそれらと一緒だとされています。カワゴ平軽石が湧水と一緒に吹き出される姿も見てとれます。

   

再び国道一号をわたり、白隠禅師の遺墨(清水町の指定文化財)で有名な清水町の玉井禅寺にやってまいりました。


白隠慧鶴(はくいんえかく)は、江戸時代中期に「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」といわれた程、わかりやすい禅画や和讃の形式で民衆の教化に努めた臨済宗中興の祖と称えられる高僧で、三島では、龍澤寺を中興開山したとして、「白隠さん」と親しまれています。玉井寺に残された白隠の遺墨は、『三界萬霊等』二点と山号『金龍山』及び寺号『玉井寺』等で、肉太の迫力のある筆跡でした。

 

玉井寺には、昔の東海道を忍ばせる、一里塚がほぼ原形のまま残っています。一里塚とは、江戸幕府により東海道に、街道の距離の目安として一里(3927m)ごとに築かれた街道の両側に土盛りした小山で、その上に遠くからでも目立つような榎や待つの木々を植えたとされています。玉井寺の一里塚は、江戸より二十九里にあります。

   

大乗妙典一地一石寶塔(経文を一つの石に一字ずつ掘ったものを納める塔)は、大井凝灰角礫岩と長岡凝灰岩で造られているもので、境内には宝永の噴火を免れた寛永年間の墓石などもあります。

   

旧道を三島の街に戻りながら、途中で石倉を見させていただきました。三島の街中の石倉と同様で、大井凝灰角礫岩と長岡凝灰岩で造られていましたが、長岡凝灰岩の中でも、かなり海底の上の方の岩を使っているらしく、薄い層からなる岩であることが見てとれます。模様の様に見えて風情がある倉となっていました。

   

最後に木町観音堂(三島市西本町)に伺いました。正式名を福聚山茲雲院(ふくじゅさんじうんいん)といい救世観音像が祀(まつ)られています。境内に入ると右側に西国(さいごく) 33カ所観音像が、左側には言成地蔵尊(いいなりじぞうそん)(石仏)が祀られています。奥にある石造物の中には、石像の頭だけ地震かなにかで倒壊したものに、頭分の岩をつけ変えて石像などもあります。
ジオ(大地)ツアーとは、地質学的な話ばかりではなく、人の営みもそのテーマに取り込みながら、地元の素晴らしい宝を再発見するツアーです。古(いにしえ)の風景を頭に描きながらの街歩きは、普段見逃しがちなものを、再発見できる素晴らしい旅でした。           
    

2012年08月14日

三島街中探検記 番外編 ジオツアー三島その1

こちらの記事は、みしまぽけっとに2011年9月に掲載された記事を、一部編集し、再掲載したものです。


~ジオツアーって?~

三島の街中で不可思議なモノを見かけると掲載している街中探検記の番外編です。

2011年9月24日(土)に開催された静岡県地学会東部支部主催の『ジオツアー三島1』に参加してまいりました。
ジオツアーって耳慣れない名称だと思いますが、ジオ(地球とか大地という意味)を観て・聞いて・体感するツアーです。

『ジオツアー三島』は、地形・地質的な視点で三島宿を観察と題し、第一回目は、三島宿の地形・地質・歴史遺産・石造物を、静岡県地学会の増島淳氏と三島市立郷土資料館の館長鈴木敏中氏の解説を伺いながら、街中を歩いて廻りました。


朝の9時半に、三島市郷土資料館前に集合しましたのは、定員より1名多い21名。

一般の参加者の他にも、日本大学地学の加藤教授、『ふるさと三島』の著者土屋氏、三島語り部の会の斎藤氏、ふるさとガイドの会、三島里山倶楽部のボランティアの方など、それぞれ専門知識をお持ちの方々も多く参加していらっしゃいました。
増島氏がお話しされている間にも、それぞれの専門分野で補いながらより深い解説をお聞かせいただきました。


豆半島ジオパーク推進事務局公式HPより転載

まず、三島という街を形成している大地の成り立ちを教えていただきました。2000万年前海底火山群だった伊豆半島が、フィリピンプレートに乗って約400kmも北上し、本州と合体して出来た地層に、丹沢山地の浸食による堆積物や箱根山の巨大噴火による火山灰・軽石などの堆積物、そしてたび重なる富士山の噴火による溶岩流と御殿場の土石流などにより、この地にいく層にもにわたる地層を形成しています。

まり、伊豆半島と本州を結ぶ、三島のあたりは、元々海岸線があり、そこに丹沢山地の堆積物、箱根山などの火山からの噴出物、富士山の溶岩流、そして御殿場からの土石などで、幾重にも重なった地層によって成り立っていることがわかりました。そしてそれらが、街中に流れる湧水や境川・狩野川の流れにより、削られて高低差を生みだしています。今回のジオツアーでは、その地面の高低差を歩きながら直に感じ取るることが出来ました。


~岩の研究編~

楽寿園内にある三島市民俗資料館前の受付で、参加料500円を支払い、皆さんの集合を待っている時間に、石の標本を見せていただきました。

  

この4つの種の石が、三島の石造物の大半を占めるのだそうです。伊豆半島が海底火山だったころの火山灰などからなる石で、現在では、沼津アルプスと呼ばれる山々の近くから採掘される、通称『伊豆石』と呼ばれるものだそうです。



石造物の必要とされる強度や用途により、それぞれ使われる石材が異なります。おおまかに分けて、石灯籠などに使われるのが、柔らかく細工しやすい長岡凝灰岩の中部層(硫黄により緑化し青みがかった石、写真左の大きな鉢)と上部層(薄褐色、写真右の台形)の石です。



大井凝灰角礫岩は
、黒みがかって石粒が交じった石で、強度があり、風化しにくいので、土倉の壁などに使われました。



白色で上質とされている江の浦白色凝灰岩は、昔は、名古屋や東京に運ばれていたため、昭和の時代に入ってから、三島の地では、壁な
どに使われる様になりました。

いままで、史跡を訪れても、石灯籠などを見かけることはあっても、それが海底火山だったころの岩から出来ているなどと思いもよりませんでした。

三島宿はたび重なる火災と地震などの自然災害によって、多くの古文書や建築物の倒壊などが相次いだため、その歴史を伺い知ることが難しいとのことです。それでも、三島史を研究されている方々の地道な研究から、様々なことが分かってきています。


~溶岩編~

なかなか歩きだ
さないので、本題のツアーの紹介になりませんでしたが、ここから実践編です。

    

集合場所になった楽寿園内が、ジオサイト(
ジオの見どころ)満載なのは、楽寿園を訪ねられた方なら百も承知のことと思います。1~1.7万年前に富士山のたび重なる噴火により、地底のマグマが流出し、幾重にも層を重ね三島後に流れつき、ところどころに溶岩塚(※)を作り、また中に含まれていたガスが噴出するなどして溶岩洞穴を作り、様々な地形となって地上で大いなる大地の力を見せつけてくれます。
上左の写真の溶岩洞穴は、幾層も重なった溶岩の跡が観てとれ、ちょうど解説されてらっしゃる増島氏の腕のところの層では、冷えて固まる前に次の溶岩の流出があったため、下部にたわんだ形で固まったそうです。



その他にも、富士山の様な粘性が小さく、さらさらな玄武岩質マグマが固まる際に良くできる縄状溶岩なども、その形状が良くみてとれます。
   
 

楽寿園内にある石造物(石灯籠や石橋)なども、~岩の研究編~でご紹介したさまざまな岩から作られています。中には、小松宮様がご造営の際、関西からお持ちになった花崗岩や非常に高価な鞍馬石などで造られているものもあります。
年代を経たものは、表面を見ただけでは、分かりにくく、文化財に指定されているものは、削って調べることもできません。今回解説していただいて、石の違いなどを注意して見る様になり、気づいたことも多くあります。


※溶岩塚とは…溶岩流の表面の部分が固まっても、内部はパイプ状になっており、末端付近の表面が押し上げられる作用により小丘となったもの

いよいよ、楽寿園の外へと歩き出しましょう。



~湧水編~

三島の街は水の街。富士山の伏流水が、そこかしこで湧き出る素晴らしい街です。

  

白滝公園にある
見事な形状の溶岩塚(写真右)を観ながら、例年になく水量の多い桜川沿いに、鏡池に向かいました。かつては、三嶋大社を参拝される方が、その身を清めたという鏡池は、涸れて朽ち果てていたものを、町内の方々や地元の企業の方の協働により、小さな公園として整備されました。現在では、NPO法人グラウンドワーク三島のスタッフの方々が維持管理されています。今回のツアーで伺った時は、参加されたふるさとガイドの会の方も驚くほど、こんこんと湧水が湧きだしていました。

これ
ら街中に湧き出る湧水は、三島溶岩流のなかの隙間を通り、その溶岩が途切れた所から湧き出します。鏡池の廻りにはかつてたさんの湧水地点がありましたが、今ではかろうじてこの鏡池と菰池公園で、水が湧き出る様を見れるにとどまります。菰池公園は『街中で湧水を満喫できる三島は、自然の宝庫』でご紹介しました。

   

これらの湧水の影響で、三島の地は削られ、御殿川流域は、三島の地でも非常に低い場所となっています。旧町名久保町(現在の中央町付近)は
、窪地からきているという説もあります。この地形の俯瞰を、生涯学習センターの屋上から拝見することができました。
(通常は、立ち入り禁止区域です)
 
  

ツアー
の最後に訪れた楽寿園脇の浅間神社には、富士登山の三島からの起点があり、やはり登山される前に身を清めたと言われている池があります。ここ最近は、湧水が枯渇していたのですが、今回訪れた際は、満々と水をたたえていました。


~石造物・史跡編~


 三嶋大社内の唯一現存する三島七木大楠の木

三島は神社・仏閣が多い街だと思っていましたが、溶岩流があったため、人があまり住めず、その様な施設が集まったということでした。

   

心経寺は、大宮町にあるお寺です。臨済宗妙心寺派に属し、あるとき住職が国家の平安無事を祈って三嶋大社の神前で般若心経を唱えていると、不思議なことに心経(般若心経)が空から舞降りてきたのでこの寺の名を心経寺と改めたという不思議な由来のあるお寺です。(三島アメニティ百科HPより)こちらの外壁は、『その2 岩の研究編』でご紹介した、大井凝灰角礫岩という、小石が交じった黒っぽい石でできています。中の鐘楼は、三島溶岩が使われていて、縁に刺繍のブランケットステッチの様なとても見事な細工が施されていました。 

   

三嶋大社の境内には、御殿場泥流が運んできたという巨石の祟り石や、三島市内の中で年代の分かっている石灯籠で最古のものなどを観る事が出来ました。(その後の調査で更に古い石灯ろうが見つかりました!)三島の石灯籠などの石造物の多くは、たび重なる震災で、倒壊・修復を重ねているため、一部違う石などが使われている場合が見受けられました。造った時と、修復した時では、手に入る石もさまざまな様です。

   

  


原神社三石神社、伊豆国分寺、本覚寺、長円寺など市内の史跡を巡りながら、今までとは違う角度で、観る事ができました。


  



また、街中にある石倉やかつての三島保健所跡の石塀など、普段気にもしなかった建物にも大地(ジオ)の恵みが見られる、三島の街は恰好
のジオサイト(大地の恵みを感じ取る場所)の一つなんです。

平成21年7月に川勝静岡県知事が提唱した伊豆半島ジオパーク構想は、これらの大地の恵みを知り、守り、活用し、次世代へ伝えて行こうとするものです。

詳細は
岡県のこちらのページ⇒ http://www.pref.shizuoka.jp/kikaku/ki-520/jiopa-ku.html
伊豆半島ジオパーク構想の公式HP⇒ http://izugeopark.org/ でご確認下さい。