2019年12月24日
伊豆半島の魅力再勉強武者修行中 〜長泉三島エリアその2〜

まず、長泉のエリアで見学したのは鮎壺の滝と割狐塚稲荷神社ということで、三島溶岩を上から横からそして条件が許せば下から見学できるエリアとなります。まず、鮎壺(土地の人は藍壺※といいます)の滝ですが、黄瀬川にあるかなり見応えのある滝です。JR御殿場線の「下土狩駅」から徒歩5分という好立地にあり、3年前からはバスツアーなどの立ち寄り先ともなっており、年間で3万人もの人が訪れるジオスポットとなっています。駐車場が鮎壺公園にある4台ということで、徒歩で訪れるのが駅からおすすめです。(大きな駐車場を整備する予定があるということなので、将来的にはもっと人気が出てきちゃうかもです。)
ジオサイト展望デッキからまず滝の上を見ていただくと、夏や秋などに訪れると黄瀬川の豊富な水流に圧倒され川床にある三島溶岩流の印象が薄れてしまうほどです。黄瀬川ではこの鮎壺の滝より上流には牛ケ淵や鎧ヶ淵などといった滝が多数ありますが、これは三島溶岩が一回だけの溶岩流ではなく、何度も流れてきた溶岩流によって形成されているからで、溶岩流が流れを止めたところに段差を作るので、そこに滝ができるといったことです。鮎壺の滝より下流には滝が無いのも、三島溶岩の側端にあたるからです。ここより下流が愛鷹山の斜面が伸びてきているので、溶岩が乗り上げていき、それ以上先には流れていかなかったのです。それでは散策路を通って川岸の方まで降りていってみましょう。
水量が少ない季節で運が良ければ、ゴロゴロの大きな石を(自己責任で単独では決して立ち寄らないでください)気をつけて進んでいくと、滝の裏側まで行くことが出来るのでですが、訪れた時は台風の影響もあり、水量も多く、一部岩盤に亀裂も確認されていたため、近づくことが出来ませんでした。遊歩道にある石段のところからの見学となります。水量があると滝自体は見応えあるのですが、水量が無いとジオツアーとしては見応えがあるというのは面白いですよね(笑)。
富士山のことを少し話すと、諸説ありますが四層構造で成り立っています。
(地学の世界というのは、数十万年前の地球に起こったことを解き明かしていく学問なので、後からそれまで常識とされていたことが、新事実が分かった時点で補正されるので、この様な言い方になってしまいます。)
一番下層には先小御岳火山という数十万年前から噴火している火山があり、その上には小御岳火山という火山が約十万年前まで活動していました。つまり、今の富士山の前にその土台となる複数の火山があったのです。ただ、今の富士山とは性質の異なる火山だったので、それを富士山と呼ぶのか微妙なところなので、今の富士山の下に別の富士山が埋もれていると言った方が適切なのかもしれません。ですから、今の富士山だけに注目すると今から十万年前から一万年前位まで活動した古富士火山と一万年前(5千年位は前後するらしいです!)位から現在まで活動を続けている新富士火山が富士山と言えるのかもしれません。
で、三島溶岩を噴出したのは新富士火山なのですが、一番初期の時代の噴火ということになります。この初期の噴火というのは、特殊でとにかく大量の溶岩(サラサラした粘性の弱い溶岩)を噴出した噴火でした。その後の富士山の噴火では、粘性が強くなり、こんなに遠くまで溶岩流を流すことはなくなりました。(唯一例外は青木ケ原を作った貞観の噴火)
三島溶岩は中でも最も遠くまで到達した溶岩となります。同じくらい遠くまで流れた溶岩は山梨県の大月市にある猿橋溶岩です。これほど、遠くまで流れてくるということは、短期間の噴火で流れてきたものではなく、数年、数十年かけて溶岩を流し続けてきた噴火によるものだと考えられています。一番よく似ているのはハワイのキラウエア火山です。1970年代から噴火を続けていた、昨年(2018年)溶岩の流出が止まったということで、それこそ数十年に渡って場所を変えて噴火をし、溶岩を流し続けていたということになります。ですから、薄い溶岩が何層も何層も重なっています。ですから、滝の横にある岩盤を見ていただくと、一見一つの岩の塊にみえますが、よく見ると複数(5枚程度)の溶岩が重なっていることが見て取れると思います。
鮎壺の滝のおもしろいところは、三島溶岩の側端なので、三島溶岩が流れて来る前の地面も見ることが出来ます。滝の横にある岩盤は突き出して(オーバーハング)しているのですが、水量が少ない時は滝の下(裏)まで行くことができるので、溶岩の下にある地面が見られます。地面はローム層です。ローム層というと火山起源の関東ローム層が有名ですが、土壌の区分である粘性の高い土壌で構成された地層をローム層といいます。細かい粒子の砂だったり灰だったりするものが、少しずつ地表に降り積もって堆積したもので、火山由来のものばかりではありません。中国大陸から偏西風に乗って運ばれくる黄砂なども、毎年毎年降り積もっていきます。場所によっても異なりますが、千年位かけて約5〜10cm位堆積します。その様なローム層の地面の上を三島溶岩流が流れてきました。
そして、オーバハングした辺りの下に入れば、溶岩が作りだした様々な事象を見ることもできます。例えば、溶岩樹形が何箇所かで確認できます。下から見上げると穴が何箇所か空いています。(中に直径80cm高さ数mのものも)これは熱く柔らかな溶岩流れて来た時、樹木が立っていると、その樹木に接した部分だけ急速に冷やされ、固まります。勢いがあれば樹木をなぎ倒してしまったりしますが、ゆるゆると流れた来た時は、固まってその周りを取り囲むように溶岩が流れていきます。樹木はやがて蒸し焼きとなり焼け落ちていきそこの樹木を型どった溶岩の穴だけが残るという訳です。焼け落ちる前に次の溶岩が流れてくると、その上に蓋をする様に木を型取ります。溶岩樹形自体は、サラサラとした溶岩流の場所では結構見ることができるのですが、それほど太いものでもなく、樹木が倒れず直立した形で残っているということは、流れのスピードがゆるやかで、ここが溶岩流の端であることを示すこととなります。また、溶岩樹形の中には、樹皮の模様をそのまま型取りした様に残しているものもあり、その辺りで当時どの様な樹木が生えていたかも分かるものもあります。この辺りは松の痕跡を残すものが多かったそうです。今現在では川べりに桜の木(30〜40年前位に植樹された)が植えられています。今回は滝の近くまでは行けませんが、以前別のジオツアーで来た時観察しました。勿論、ぽけ子にはその樹皮の模様まで判別できる技量はありませんが、三島溶岩の下に入って下から観察できるという経験は、滅多に出来ないので、大変興味がそそられました。昔行った時の写真が探せず掲載が出来ませんが、見つけたら後から追加するやもしれません。
吊橋があり、沼津市側にも滝全体を見渡せる場所があります。吊橋は細いですが、あまり揺れないので普通に渡れるのですが、私は高所は大丈夫なのですが、吊橋や歩道橋に滅法弱く目をつぶって小走りに渡ることが多く、ゆっくり観察できないのですが、端の途中には下を覗けるところなどもあります。(ちょっと曇ってしまっていますが、勇気のある人は覗いて見て下さい。)滝全体を見ると、地元の人たちの中には「ミニナイアガラ」(高さ9〜10m幅65m余り)と呼んでいる人もいるそうで、富士山周辺に雨が多く降ると、かなりの水量で溶岩の間から滝が落ちる姿が眺められます。ただ、多すぎると滝の景色を変えてしまうこともあります。昨年(2018年)10月の台風の後に、せり出した岩盤が崩落してしまいました。その1の記事で掲載した数年前の富士山と鮎壺の写真と見比べるとその違いをみていただけると思います。一度訪れた場所でも、時間をおいたり、季節を変えてみに来ていただくと、今見えている景色も自然の営みの中で、変わりゆくもので、滝は常に後退していくのだと感じていただけると思います。
ちなみに、鮎壺の滝から離れた右の端に流れがありますが、これは富士山からの伏流水ではありません。黄瀬川とは全く別の水となります。ここより上流の地区では、三島溶岩に覆われているため、降った雨水がほぼ地面に浸透してしまうため、耕作するのには川の水だけでは不足してしまったため、裾野市と長泉町と清水町の集落の人たちが、江戸時代の初期(1670年位)にトンネルを掘り、箱根の芦ノ湖の水を灌漑してきたものとなります。田畑で利用された水の残りがこの黄瀬川の鮎壺の滝で藍(あい)まみえたということになります。
※藍壺とは元々の地名で自然地形から名付けられた地名で、沢が合流するところを藍沢といいますが、滝のことを壺といっていたので、そこから周辺の地名は藍沢、そしてこの滝のことは藍沢の壺と呼ばれていた。(これも昔のことなので、諸説あります)
鮎壺の滝は芹沢光治良の「人間の運命」という作品にも登場します。新潮社から全7冊ということで、大作なのでぽけ子は読んでいないのですが、wikiには「ヒロイン高場加寿子のモデルとなった安生家の別荘があった場所」と解説されていました。周辺はかつては東海道線の三島駅(現下土狩駅)があり、交通の便が良かったので、別荘地としても人気の景勝地だったとのことなので、作品を読んでいただけば、大正末から昭和初期の様子を知ることが出来るかもしれません。
鮎壺の滝は、平成8年(1996年)静岡県から県の天然記念物に指定されています。
2019年12月24日
伊豆半島の魅力再勉強武者修行中 〜長泉三島エリアその1〜

箱根・愛鷹山(一番古い活動で40万年前位)また、本州と伊豆半島との境界付近に富士山(およそ10万年前)が誕生し、火山活動が活発化します。今回ご紹介するのは、概ね富士山での地殻変動がこのエリアにもたらした様々な影響が主となります。
皆さんご存知のように、富士山は活火山です。活火山というのは火山噴火予知連絡会での定義(2003年)によると、「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」ということで、現在日本には111箇所となっています。(気象庁HPより)
静岡県内では富士山、箱根山、伊豆東部火山群ということで、ほぼ県内の東部に位置することとなります。
富士山の山頂が最後に噴火したのは1707年(宝永4年)、宝永火口を作った噴火で非常に大きな噴火でした。よくテレビとかで想定される富士山の噴火というとこの宝永の大噴火を取り上げられます。この噴火は富士山の噴火の中でもかなり大規模な噴火で、多くの火山灰も振らせていて(首都圏でも約1cm程度)、各地に様々な影響を与えた活動とおもわれます。しかしそれ程の影響を与える富士山の噴火も有史時代になってからは、781年の噴火以来10回で、宝永大噴火クラスの大噴火は、864年(貞観6年)の噴火(貞観噴火)で、青木ケ原樹海を作り、富士五湖のうちもとは一つだった精進湖・西湖を分断し、本栖湖を形作った噴火位です。もちろん、災害への備えという意味でいえば、その想定は間違いではありませんが、やみくもに恐れるばかりでなく、正しい知識で富士山を理解すべきだと思います。
ちなみ富士山の参考図書としてのおすすめは
静岡大学の小山真人先生の「富士山 大自然への道案内」(岩波新書) です。
富士山の歴史、地質的な内容とともに、ハイキングのガイドとしても面白かったです。
で、今回のエリア内でみられる富士山がもたらした影響は2つです。まず、富士山の火山噴火にともなう溶岩(主に三島溶岩と呼ばれている)は、地表に現れているだけでも、三島・長泉の町中や黄瀬川の川床などいたるところで見られます。この溶岩は有史時代よりもっと時代を遡って約1万年前位、縄文時代の富士山の噴火に伴ってこのエリアに流れ込んできた溶岩となります。このへんにその縄文人が住んでいたか不明ですが、住んでいたとしたら大変深刻な影響を受けたかもしれません。溶岩は、愛鷹山と箱根に挟まれていたため、現在の大場川と黄瀬川の間を流れてきて、この周辺で止まったと考えらています。実のところ先端は正確な場所は分かっていません。ただ、柿田川までは溶岩があることは確認されていて、もう少し南まで流れているのではないかと考えられていますが、地下20m位のところにありますが、川の土砂に埋もれてしまっています。地上で見えている末端が今回のエリアに充ります。
もう1つは、今の御殿場市、小山町を形成した2900年前に起きた「御殿場岩屑(がんせつ)なだれ」とその後に続く「御殿場泥流」(雨が降ったりして、一度溜まった岩屑なだれの堆積物が再び移動してくる現象)です。富士山のような3000mを超える成層火山(度重なる噴火の噴出物を積み重ねて成長する山)では、上部にいけばいくほど地盤が安定しなくなり、地震や火山などの衝撃で地すべりを起こすことがあります。海岸で砂の山を作っているとき、高く高く積み上げると上の方が安定しないで一部が崩れてきて悲しい思いをするのと似ています。富士山は大体3〜5千年に1回位の頻度で巨大な山崩れを起こしてきました。そして最も最近起きたのが先程の「御殿場岩屑なだれ」でその後に続く「御殿場泥流」によって、このエリアの地盤形成に大きな影響を与えました。
2019年10月09日
伊豆半島の魅力勉強武者修行中(その2〜西海岸編〜)観察してみようの巻

ジオサイトを歩かれた時、もちろんガイドの方のお話を聞くのが一番なんですが、自分達だけで観に行った時の観察の仕方にコツがあるんだそうです。観察の仕方というよりは、愉しみ方と言った方がよいのかな?
足元の地面や地層とかを見ても、何をどう見れば良いのかとお思いでしょうが、ぽけ子もそうです。ガイドの方のお話を伺ってはじめてコリャ面白そうだなぁって興味を持ち始めるのですが、それまでは説明を聞かなければ、知識も無いので、観ていても「確かに他のところより綺麗だなぁ。」とか「変わった形だなぁ。」とかありきたりの感想をもって帰る位で、自分の家に帰ってしばらくすると忘れちゃうもんでした。
でも、今回ジオの先生のお話を伺ってからはちょっと見方が変わりそうです。
まず足元やジオサイトの石ころとか地面の色を見ます。一個一個の石ではなくて、概ねどんな色の石が多いかな?程度で大丈夫。(ここで「この石は玄武岩だから…。」とか分かる人は、この投稿はすっ飛ばして下さい。)大きさはどうでうか?色は均一ですか?違う色のものが混在していますか?それから今度は石の形を見て下さい。角ばっていますか?角が丸まっていますか?そしてちょっと周りを見渡して、石の大きさや形が同じなところはどの辺りか。水平に広がっているのか。斜めに広がっているのか。とかをザッと観察してみて下さい。
こんなことで何が分かるじゃい!って言わないで下さい。
例えば、堂ヶ島のこの辺りでは、足元にはちょっと
そして、上の方にいくと砂と小さな粒の石が固まっている理由は、水の中でこの地面ができたのだという証拠にもなるんです。火山が噴火した時に吹き上がる火山灰の中には色々な粒の大きさのモノ混じっているのですが、地上だと噴出されて空に舞い上がり地面に落下してくる内に、大きくて重い粒のモノは手前で落ちて小さくて軽い粒のモノは遠くまで飛んでいって落ちます。(水の中だと空気の中より抵抗があるため若干飛距離は短くなるが、国土交通省のHPで調べたところ噴石は空気中だと平均で約2km最大で5km以上飛ぶから、推して知るべし)自然と種類別に分かれて落下するので、ここの様に同じところに重なって違う種類の色や大きさの石が地面を作るということは考え難いのです。
色や大きさ形、広がりかたといった私でも見て取れることだけで、ここまで推測出来るのです。もちろん自分の推測が正しいのか後で確認すると、自分の推測が合っているのか、間違っているのか答え合わせが出来るし、間違っていても次回からの判断材料になります。ジオを地学として学ぶには机の前に座って知識を蓄えるお勉強や、書物を読むことも大事です。でも、やっぱり実際の場所に行って、見て触れて感じたものから自分なりに思い描いたことを専門の人(ジオガイド)に話を伺うとか資料をあたって確認することで身に着くのかなと思いました。何より探偵気取りで、五感で集めた情報から矛盾のない仮設を推理して、今定説とされている事実と照らし合わせるというのは、ちょっとワクワクしてきます。万が一定説と合わないことを見つけたら、定説自体がひっくり返っちゃうかもです。
ちなみに観察した辺りの地層は、他にも面白い特徴があるので、それは次回堂ヶ島周辺の記事を投稿する時にお話できるかな?
2019年10月07日
伊豆半島の魅力勉強武者修行中(その1〜西海岸編〜)一色枕状溶岩の巻
西海岸というとついついカルフォルニアの青い空を思い出してしまいますが、今日は伊豆半島の西海岸ということで西伊豆町の黄金崎・堂ヶ島・一色と松崎町の弁天島と室岩洞を巡ったお話。
伊豆半島の西海岸は、もちろん海が西側にひらけているので、夕陽が海に沈み、しかも富士山が駿河湾の向こうに見え隠れするので、風光明媚な景勝地なのですが、なぜか伊豆を旅する人は都心に近く、交通の便の良い東伊豆をイメージする人が多く、ぽけ子の私見ですがちょっと寂しげな感じがします。夏の海水浴にくる人の多くも、日本でも有数のエメラルドグリーンのの海の広がる白浜海岸とか南伊豆に向かってしまうので、割と西伊豆の海水浴場は穴場だったりします。
ぽけ子にとって西海岸は月約一回天城の水を汲むために行き来するし、自分のねぐらから割と近いので遊びに行きやすい場所です。それこそ、元気があるときはチャリでサイクリングして大瀬崎(西海岸って言うにちょっと付け根すぎるけど西の海岸線沿いにあるから)まで行くこともあります。ただ通り過ぎるだけでも海岸線の綺麗さや、堂ヶ島周辺の面白い形の岩や島には興味を惹かれていました。でも改めてジオパークという視点から巡ってみるともっともっと奥が深いなぁと感じました。
伊豆半島ジオパークにご興味のある方は伊豆半島ではいたるところでジオ(地球の活動を肌で感じて、自然とともに暮らした人々の営み)を感じることができる場所だってのは、分かってくれていると思いますが、西海岸では伊豆半島ができる前の海底火山だった頃のことまで感じることが出来るんです。
前にもブログに書いた通り、伊豆半島は日本の他の地域とちょっと成り立ちが違っていて、ザックリ言うと、日本の数百km南の沖の深い海底で、最初の類人猿が地球に誕生した頃(2000万年前位)に活動していた海底火山がプレート(地球の表面を覆っている分厚い岩盤で十数枚に分かれていてその上に陸地や海がある)の上に乗っかって北上位してきて本州に衝突し、押し合いへし合いして半島になっちゃったところです。(詳細は確かな情報源伊豆半島ジオパークのHPでご確認下さい。)
今私たちが見ている景色は、本州とガッチリ地続きになっている伊豆半島しかないので、なんとも想像し難いですが、現在もこのプレートは北上を続けていて、伊豆半島と同じプレート上に乗っかっている伊豆大島や新島はいつか本州にくっついちゃうと思われています。
伊豆の西海岸にはその一番古い海底火山だった時の名残りを見ることができるところがあるんです。ぽけ子が水を汲みに行く時毎回通るところなのですが、西伊豆町と松崎町の間にあるの仁科川沿いで、ジオスポットとして看板もでている、一色(いしき)の枕状溶岩です。実際見ると枕と言うにはなんか丸っこ過ぎて少し寝にくい様な気もしますが、いかんせん英語でPillow Lava(ピロートークじゃないですよ!)というので、枕の様な溶岩と訳されます。
火山から吹き出される溶岩は地上で吹き出された時と海の中で吹き出された時では異なった形状で痕跡を残します。もの凄く熱々な溶岩が空気の中に吹き出されるのと水の中で吹き出されるのでは違うというのは、薄々分かる気がしますよね。
で、この一色の枕状溶岩は伊豆半島の他のところとは異なって玄武岩質(中でもアルカリ元素を割りかし多く含む玄武岩)の柔らかい溶岩です。この溶岩がゆっくりとした速度で流れ出た時に、外側が先に冷えてきて固まるが、中を熱々の溶岩が流れてきて、丁度ソーセージを作るときに豚や羊の腸にひき肉とかの中身を絞り出したみたいにムニュムニュと押し出されてきて、チューブ上に固まります。それが幾重にも積み重なって枕状溶岩を作り、丁度一色にあるそれは断面図みたいに丸まっこい石の塊が積み重なって見えるのです。
枕状溶岩の出来る様子が下の動画でご覧いただけます。
ぽけ子は説明を聞くまで、よくお掘りやなんかで見るような自然岩を組み合わせ作った石垣みたいに見えたのですが、隙間なくまた同じ様な形で同じ様な色の岩が、しかもちょっと枕の両側が垂れ下がっているのを教えていただいて違いが分かった様な気がします。
なぜこの一色の枕状溶岩が伊豆半島で一番古く出来たものかと分かるかというと、溶岩の中は当然熱々なので、生物の化石は無いのですが、その上の地層に含まれたプランクトンや原生生物である有孔虫(よくお土産屋さんで見かける星砂も有孔虫の殻です)の化石が1800万年前位にしか生息していない種類だったので、それより下にある地層だからその様に推定できるということでした。(大昔のことは意外とザックリしているのがぽけ子好み。)
有孔虫に関しては以下の冊子が参考になりました。
Blue Earth: 海と地球の情報誌 第25巻 第4号(通巻126号)
http://www.godac.jamstec.go.jp/catalog/doc_catalog/metadataDisp/be126_all
一色の枕状溶岩には大きな岩脈が二本斜めに入っていますが、これは枕状溶岩の地層が出来た後に、ちょっとした亀裂の中に溶岩が入り込み、亀裂を押し広げてその幅を広げ、板状に噴出してきたものです。岩脈は積み重なる地層を突き抜ける様に垂直だったり斜めに伸びる板状の岩の板なので、結構違いが見て取れます。
伊豆半島ジオパーク内だと西伊豆町の黄金崎や浮島(ふとう)海岸、南伊豆町の妻良(めら)湾、熱海市の網代付近などでスケールの大きな岩脈群が見られますが、この一色では間近にみることが出来て、逆にその違いがよく観察できた気がしました。
一色枕状溶岩のスポットは住民の方々が自主的手入れをし、大切に管理をしてくれています。古い地層のため脆いので、崩れてくる恐れもありますので、気をつけて観察しましょう。また、許可なくハンマーで叩いたり、崩したりしないで下さい。子供達へ残すべき大切な伊豆の大地の記憶(宝)です。また道路が大変狭く車を停車するスペースも限られていますので、乗り合わせの上住民の方々に配慮して通行しましょうね。
2013年07月19日
ジオサイト守山(自然と歴史) その④
そして、いよいよ国宝のある願成就院へ。途中鎌倉街道を通りながら、増島さんが「この辺は、今が住宅が立ち並んでいますが、浄土庭園という池だった。中之島に弁天様が祀られていたそうです。」とおっしゃられました。
願成就院の諸仏像の国宝関連の報道で川勝静岡県知事が触れられた浄土庭園。平泉の毛越寺、宇治の平等院と並ぶ浄土式庭園とは…
Wikipediaによると、平安時代から鎌倉時代にかけて築造された日本式庭園で、仏教の浄土思想の影響を大きく受け、極楽浄土の世界を再現しようとして金堂や仏堂などの寺院建築物の前に園池が広がる形をとっていたそうです。歴史ガイドの会の迫田さんによると、その中之島にあったとされる弁天様の像の頭部だけが残っていて、近くの光照寺にあるそうです。
ちなみに願成就院にあった「吾妻鏡」記録と発掘調査から復元されたミニチュアの浄土庭園は、現実に復元されたら見てみたいと思わせるものでした。
願成就院は、鎌倉幕府初代執権北条時政が、頼朝の欧州平泉討伐の戦勝祈願のために1189年に建てました。その後、北条氏の氏寺として次々と伽藍が増築されましたが、戦国時代の相次ぐ戦乱で、ほとんどの堂・塔が消失し、繰り返す戦乱の中、僧侶たちが守り切った大御堂本尊阿弥陀如来坐像、毘沙門天像、不動三尊像の5体が、今回国宝に指定されるとされています。
こちらからは、歴史ガイド迫田さんの解説となります。
この諸仏像は戦前は国宝であったが、戦後、国の重要文化財に指定され、今回再び国宝に再指定されたそうです。1977年の修復の際レントゲンで毘沙門天像と不動三尊像の胎内にあることが確認され、取り出だされたされた運慶が時政公の発願で仏像を作りはじめたことが記されている塔婆型銘札。これらが胎内にあったことで、運慶が確かにこれらの仏像作った証となったことと、初期の大日如来像(奈良円成寺)と後期の金剛力士像(奈良・東大寺)の間を埋める、写実的な力強い仏像ということで、指定されれば、中部地方初の彫刻・仏像の国宝になります。
仏像鑑賞初心者のぽけ子に、仏像鑑賞しどころを教えていただいた所によると、阿弥陀如来坐造は、説法印という形に結んだ指の先が欠けていることで、指の間にある縵綱相(まんもうそう…如来様は手足の指の間に水かきの様な膜があり、水ももらさないほど、衆生を救い上げるという意味があるそうです)がよーく拝見できること。毘沙門天像は玉眼という鎌倉時代以降に一般化した技法で、仏像の目の位置をくり抜き、そこに水晶をはめ込んであるということでした。そして、また無知をさらけ出す様でお恥ずかしいのですが、これらの仏像は、寄木造と呼ばれるもので、一本の木から一人で彫り出した像ではなく、運慶が属していた慶派と呼ばれる仏師の集団による分業で造られているということでした。当時、沢山の仏様を造り、造寺に励めば大いなる徳があるという思想のもと、仏様の大量生産の要望がたかまり、短期間で仕上げられるように、分業化した寄木造が起こったそうです。運慶の作とされる仏像も数多く、先日訪れた国清寺の奥にある毘沙門堂の山門にも運慶作とされる金剛力士像があります。ちなみに願成就院の不動三尊像は、現在東京にあり5月上旬には、5体揃って鑑賞が出来るとのことでした。←現在は勿論戻ってきています(2013年7月現在)
仏様の安置されている大御堂の裏手に宝物館があり、政子地蔵菩薩像や曼荼羅などが展示されています。そこに、毘沙門天像と不動三尊像から取り出だされた塔婆型銘札も展示されています。
願成就院の大御堂並びに宝物館の拝観料
一般大人400円、中高生200円、小学生150円
団体は20名以上からで大人300円
拝観時間10時~16時までとなっていますが、見ごたえありだと思います。
ちなみに、願成就院では開山八百周年記念事業として、石彫五百羅漢というのがありました。永代供養料を含めた料金をお支払すると材料・機材を提供してくれて、専門家の指導を受けながら自分なりの羅漢を制作出来るというもので、500体限定ということでしたので、まだ残っているかは不明です。平成の五百羅漢は、メガネをかけていたり、ワインを持っていたりと色々でなんだかクスリっと笑えるものや、心温まるものなどとても興味深く拝見しました。
今回のジオツアーは、本当に数千年前の海底火山から陸化し始めた頃から狩野川放水路を生み出していくまでの大地の物語と鎌倉時代から戦国時代までの歴史とそこに隠された悲しい女性の物語など、盛りだくさんな内容の旅でした。説明が長すぎて読み難い箇所も多々あったと思いますが、ぽけ子の家から歩いていける場所に、こんな場所があると知って、「本当に伊豆の国って奥が深いじゃん!いろんなこと勉強すると面白いじゃん♪」と単純に喜んでしまったぽけ子の感動が少しでも伝わればと思います。
ちなみに、静岡県地学会東部支部のこの様なジオ関係のツアーは、三島市の郷土資料館が共催していることが多く、広報三島などに募集が掲載されます。
伊豆の国市では、今回のツアーにも同行された迫田信行さん(前会長)も所属されている県内有数のボランティアガイドの会「伊豆の国歴史ガイドの会」があり、十数年以上前から活動され、通算15万以上の方々をご案内されています。土日祝日には、25名のボランティアガイドの内5名の方々が当番として、江川邸、反射炉、蛭ケ小島の三か所(今後願成就院も検討中)に分かれて立たれ、観光で訪れた方に積極的に声を掛けてご案内をされていらっしゃるそうです。所属されていらっしゃる方々の中に地元出身の方は少なく、伊豆の国に住まわれてその良さを知った方々は、ボランティアガイドとなられることが多いそうです。通常のガイドの他に、ご要望に応じて伊豆の国各所をご案内するオプションガイドも無料で行っていて、特に迫田さんは、伊豆半島ジオパーク認定ジオガイドの資格もお持ちなので、ジオに関するスポットもご案内もしていただけます。
詳細は、伊豆の国市商工観光課(055-948-1480)か伊豆の国歴史ガイドの会(055-949-8866)までお問い合わせください。
2012年10月09日
三島街中探検記番外篇 ジオツアー三島4(その3)
数多くの恵みをもたらす大地。しかしながら時として災いをもたらすこともあります。安政元年11月4日(西暦1854年12月23日)の寒い冬の朝(五つ半と言われているので、午前9時頃)のことです。現在、発生が危惧されている三連動地震が発生しました。安政東海地震と呼ばれる遠州灘の御前崎沖、南海トラフに沿うプレート境界を震源とするマグネチュード8.4の巨大地震です。
この地震の被害は、関東から近畿に及び伊勢湾にかけての海岸は大きな被害を受けました。さらに、津波が房総から土佐までの太平洋沿岸を襲い、被害をさらに大きなものにしたと言われています。
この地震により、鮎壺の滝近くの沼津・小林村では、土地が陥没しました。地元の人はこの時出来た黄瀬川右岸側の急傾斜地を「地震窪」と呼んでいます。崩壊の規模は、幅50間(約100m)、長さ2町(約250m)、深さ4~5丈(約12~15m)で面積は6,000余歩(約2ha)ということで、かなり大規模なものでした。
移築された記念碑の向かいには、道祖神(賽の神この辺では少し訛ってシャーの神)がありました。
同行されていた瀬川さん(沼津の学芸員)のお話によると、道祖神は、村の中心、村の境界や道の辻、三叉路などに石碑や石像の形態で祀られています。近世になってその姿形から良縁・安産・夫婦円満の神様に変化してきましたが、元々は二番目に悪い災い(病)をもたらせる神様だそうで、1月15日には先触れとして村を訪れ、各家々にマーキングをするのだそうです。そして、その後一番悪い災い(病)をもたらす神を案内してくると云われています。そのため災いを恐れた村人は、「尊(とうと)や尊(とうと)」とはやし立てながらその先触れである賽の神様を火にくべて、村にマーキング出来ないようしたと言われています。これが「どんど焼き」の起源だそうです。火にくべられるため、道祖神の劣化は著しかった様で、道祖神が何体も道に並んでいるのはこんな理由もあった様です。今日「どんど焼き」の風習は各地で残っていますが、お飾りやダルマを焼いたり、団子を焼いたり、失敗した書初めを燃やす行事だけではなかった様です。
【消えた溶岩塚と今も残る溶岩塚】
長泉町東部には、沢山の古墳と溶岩塚があった場所と先に述べさせていただきましたが、今日町中には溶岩塚がほとんど見られません。
溶岩塚はサラサラとした玄武岩の性質だった富士山の溶岩流が末端で冷え固まり始め、上流からの溶岩によって押され行き場の亡くなった溶岩やガスが盛り上がり、塚状になったところです。盛り上がった塚の表面は冷えているのでそれ自体の重みで割れてしまい、ひび割れを作ります。(カルメ焼きの原理に似ています)
中から熱い溶岩が流出し「縄状溶岩」ができる場合も多く、溶岩の流れる様を示す、貴重な大地の遺産です。
しかし、溶岩塚は三島溶岩を採石し易い場所です。長泉町文化センターベルフォーレの裏手には、採石場の跡が残されていました。この様に採石されたり、開発により表面を削り取られたり、宅地の下に埋もれている溶岩塚もあります。
この写真は駐車場の陰にひっそりと残る三島溶岩塚です。
丁度出くわした住人の方にお伺いすると、「溶岩をどけるにも大金がかかるから、そのまま上手い具合に利用して家を建ててるのよ。」とおっしゃっておられました。
庭の一部として活用されていらっしゃる住宅もありました。
文化センター裏の採石場跡の隣接した小高い山は、古墳として利用された溶岩塚です。塚の盛り上がりで陥没した場所を石室としていたのことです。
そして、伊豆半島ジオパークにおける東部での有数のもう一つのジオスポット割狐塚稲荷神社も溶岩塚を再利用した神社です。
御神域に鎮座する割狐岩には、むかし老狐が住みつき夜ともなると出没したと言い伝えられています。(触ると寿命が3年延びると言われているので、3回ほど触ってきました!)
南北約30m、東西約25m、高さ6mの溶岩塚で縄状溶岩が隆起した塚で逆行している様子も見てとれます。
割狐塚神社の境内に造られた長霊神社は、同じく南北約50m、東西約50m、高さ4.5mの溶岩塚で、第二次世界大戦後長泉町から出征戦死した御霊を祀った神社です。
この様に、溶岩塚が再利用されていると残されています。今では、長泉の東部にほぼ原形を残す溶岩塚は、古墳に再利用されているものと神社2か所の計3か所となっています。
途中静岡県の天然記念物に指定されている大公孫樹(おおいちょう)を横目に、歩いてくると、お社がありました。
願掛八幡神社と言い、創建の年代は不詳ですが、鳥居と石灯籠などの石造物に三島溶岩が利用されています。長泉町の各所で見かける石灯籠は、三島溶岩が多く、長岡凝灰岩が多用されている三島との違いが見受けられます。使われる石材の違い、駿河国と伊豆国の違いの一つとも言われています。その1でなるほど!と思った違いはコレです。ジオツアー1~3を通じて三島の石材を見て廻っていたので、石材を見て国の違いを感じるというのも、ジオツアーならではの様な気がしました。
最後に甲州街道(江戸と甲府を結ぶ街道ではなく、甲州へ向かう街道を総じてこう呼ぶ場合があるそうです)に祀られていた道祖神がジオツアー三島4の最後を締めくくってくれました。
2012年10月09日
三島街中探検記番外篇 ジオツアー三島4(その2)
【土狩500塚】
長泉という町は、明治22年、大岡荘・長窪地区(主に愛鷹山麓)と小泉荘(三島扇状地)の10カ村が合併して長泉村が出来ました。昭和35年には町制が施行され、「長泉町」が誕生しました。その東部は、三島扇状地上に立地するため水利に恵まれず、「土狩500塚」と呼ばれる古墳や三島溶岩塚が点在する不毛の地でした。上水道が整備され、今では住宅地の立ち並び、現在では42千人(2012年10月1日現在)余りの人々が暮らす豊かな町となっています。
新幹線のガードを潜り抜けるとそこには、古墳がありました。突然古墳が出現したので、とてもビックリしました。長泉町には旧石器時代から人々が生活しているため、町内の各所でこのような遺跡・遺物が見られます。この古墳は、長泉町の指定史跡でもある原分古墳(はらぶんこふんと呼ばれていますが、古くははらわけこふんと呼んでいました)です。墳丘の上に山の神神社が祀られ、人々に敬われていたました。(現在では、墳丘の横に移築)
7世紀中ごろのに造られた直径16m(県東部最大規模の古墳時代後期の横穴式石室を持つ)大型円墳です。道路の拡張工事で、現在の場所に移築復元されたものです。
石室は黄瀬川系の玄武岩、家形と呼ばれて屋根のある石棺(実物は移されていて同種のものが展示されています)は江之浦白色凝灰岩で出来ています。
装飾的な近畿系と実用的な関東系両系統の馬具や刀剣、遠州系須恵器などが出土しています。追葬(4体)が行われ、2世代にわたる駿東地域の有力者の墓とされています。
江之浦白色凝灰岩は、三島では昭和の時代になるまで、あまり使われることがなかった石材です。
海底で降り積もる火山灰の様子が、屋根に使われた岩の表面に見て取れることができます。
【庚申堂と帝釈堂】
古墳を後にし、住宅街を進むと、小さな庚申堂と帝釈堂があります。廃仏毀釈によりこの地にあった庚申堂が廃され、明治21年仏教色のない「教習所」が建築されました。信教の自由が認められた明治末、庚申堂は再建され、「教習所」は「帝釈天堂」となりました。
庚申信仰というのは、中国の道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとにした民間信仰で、人間は生まれた時から人間の体内にある虫(三虫さんちゅうとも呼ばれている)がいて、60日に一度庚申の日に眠ると、三尸が体から抜け出して、天帝にその人間の罪悪を告げ、その人間の命を縮めるとされていることから、庚申の夜は眠らずに過ごすようになりました。また、一人では一晩中夜を過ごすことは難しいことから、庚申講と呼ばれる集まりを作り集まって夜を過ごす様になったそうです。
【御殿場線下土狩駅】
2002年に長泉なめり駅が開業されるまでは、長泉町唯一の鉄道駅で、開業は御殿場線が東海道線の一部であった明治31年です。当時は三島停車場(三島駅)と呼ばれ、伊豆箱根鉄道駿豆線(当時豆相鉄道)の乗り換え駅として賑わっていました。昭和9年に現在の下土狩駅に改称されましたが、昭和9年に現在の三島駅が開業し、駿豆線も撤退し、御殿場線の一中間駅となりました。近くには、文化財展示館などもあり、長泉町の歴史や民族を学べる施設もあります。
【富士の恵みをたたえる鮎(藍)壺の滝】
伊豆半島ジオパークにおける東部での有数のジオスポット鮎壺の滝は、黄瀬川の中流にある愛鷹山山麓部に乗り上げた三島溶岩末端部にかかる滝です。平成8年には、天然記念物として静岡県の指定を受けています。高さは約9m幅は約65mで、水量も豊富です。
川床に露出する溶岩は、斜長石や気泡が目立ち、三島溶岩の特徴をよく表しています。川底には、ひときわ黄色みを帯びた地層が見え隠れしています。これは愛鷹山麓を形成していた愛鷹ローム層で、この地層があったため、滝壺周辺では三島溶岩は、くの字に曲がった様に張り出しています。下層にあった愛鷹ローム層は、黄瀬川の浸食により流出し、上を覆って流れ出ていた三島溶岩だけが、その姿をとどめています。
上流部には、ところどころにポットホール(甌穴おうけつ)が見られます。ポットホールは、川底が固い場合、表面の割れ目など弱い部分があると、そこが水流によって浸食されくぼみとなります。このくぼみの中に礫(岩のかたまり)が入ると渦状の流れとなり、その礫が回転し丸み帯びながらくぼみを広げ、円形のくぼみを形成していくことです。この周辺では、丸くなった礫は、廃仏毀釈などで首をはねられたお地蔵様を修復する際、お地蔵さんの首として利用されたそうです。
三島溶岩が流れてきた年代は、滝壺脇の溶岩樹型木片の年代で、1万500年前と推定されています。溶岩樹型とは、溶岩流が樹海や森林帯を流れ下ると、樹木が溶岩流の中に閉じ込められ、木質部は消失しますが、樹木の組織(木片)や外形が溶岩流中に閉じ込められて、印されたものです。
ちなみにこれらの説明を伺ったのは、この吊り橋の上…高所恐怖症のぽけ子には、ちょっと足のすくむ思いでお話を伺っていました。(途中でアクリル板なんてのも配されています…。)
2012年10月09日
三島街中探検記番外篇 ジオツアー三島4(その1)
約1年ジオツアー参加に胸を弾ませて集合場所の楽寿園正門に行くと、ジオツアーに初めて参加された方が多いことに驚きました。同じツアーを春に開催し、昨年ツアーに参加された方はほとんどそちらに参加されていたということでした。それでも、和やかな雰囲気で総員18名のツアーが始まります。参加者の中には、お馴染みの日本大学国際関係学部の加藤先生や沼津市の学芸員瀬川さんと石川さん、三島市郷土資料館運営協議会委員長の迫田さんもいらっしゃったので、それぞれの専門分野からの興味深いお話が聞けそうです。
受付が済むと静岡県地学会東部支部の増島先生から資料と行程の説明がありました。今回は、ジオツアー1~3で見て廻った三島から、さらに飛び出して長泉にまで足を伸ばします。まずは、今年の9月伊豆半島が日本ジオパーク委員会により、日本ジオパークに認定されたことの報告がありました。(拍手!)
認定された日に、新聞各紙で取り上げられたり、三島駅の南口のロータリーに認定の大きな垂れ幕が掲げられていたので、参加者の方々もご承知の方が多かった様です。しかし、ジオパークとはなんだろう?と疑問を持たれた方も少なくありません。ジオパークは、大地の営みを知り、災害や人の暮らし、動植物とのつながりを感じ、それらを活用しながら大切に守っていこうという場所です。日本ジオパークネットワークの公式HP(http://www.geopark.jp/)内のジオパークに関する説明の中に、一番分かりやすい言葉で書かれています。
「地球を丸ごと考える場所、それがジオパークです。」
ジオツアーと観光、今までのガイドツアーとのちがいを、改めて増島先生が説明してくれました。
例えば、石灯籠を見たとします。普通の観光は…「これは江戸時代に、中にろうそくなどを入れて、夜明かりを照らすために使われました。」。今までのガイドツアーならさらに…「これは、慶長7年に作られた石灯籠で、この台石の形にその特徴が表れています。」。でも、ジオツアーならさらに…「これは、長岡凝灰岩、通称「伊豆石」と呼ばれてる岩で作られていますね。伊豆半島が海底火山だった頃に降り積もった火山灰が海底で地層となった岩で出来ています。川などを使って運んできた様で、三島の石造物は、この岩が多く使われています。その後度重なる地震で、倒壊し修復を繰り返したので、火袋の所だけ違う石材で作りされていますね。」などと、より当時の人の暮らしぶりと歴史の流れを感じさせるものになります。
一点の説明ではなく、広がる空間とそこに流れる時間とを感じさせてくれるジオツアー、いよいよ歩き出します。
JR三島駅南口の前の通り、御幸通りを西に向かいます。ちなみにこの御幸通りは、昭和5年に昭和天皇が、三島停車場(現下土狩駅)から三島高等女学校(現静岡県立三島北高等学校でその当時は、現在順天堂大学看護学部がある場所にあった)まで御幸されるために作られた道路です。昭和天皇をお迎えするため、当時の女学生は袴姿で、停車場までお迎えに上がったそうです。
伊豆箱根鉄道駿豆線の線路を超えてすぐのところに、一級河川境川の起点があります。
建久6年源頼朝が奈良東大寺大仏供養の帰途、黄瀬川宿で領地の訴訟(そしょう)を聞き、この川を伊豆国と駿河国との国境に定めたことから、境川と名付けられたと言われています。三島は伊豆国、長泉は駿河国だったのです。このことは、何となく知っていたのですが、今回のツアーで「なるほど!」と思わせることがありました。(それは後のお楽しみ…)
三島街中探検記番外篇 ジオツアー三島4(その2)へと続きます。
2012年08月14日
三島街中探検記 番外編 ジオツアー三島その2
2012年08月14日
三島街中探検記 番外編 ジオツアー三島その1
~ジオツアーって?~
三島の街中で不可思議なモノを見かけると掲載している街中探検記の番外編です。
2011年9月24日(土)に開催された静岡県地学会東部支部主催の『ジオツアー三島1』に参加してまいりました。
ジオツアーって耳慣れない名称だと思いますが、ジオ(地球とか大地という意味)を観て・聞いて・体感するツアーです。
『ジオツアー三島』は、地形・地質的な視点で三島宿を観察と題し、第一回目は、三島宿の地形・地質・歴史遺産・石造物を、静岡県地学会の増島淳氏と三島市立郷土資料館の館長鈴木敏中氏の解説を伺いながら、街中を歩いて廻りました。
一般の参加者の他にも、日本大学地学の加藤教授、『ふるさと三島』の著者土屋氏、三島語り部の会の斎藤氏、ふるさとガイドの会、三島里山倶楽部のボランティアの方など、それぞれ専門知識をお持ちの方々も多く参加していらっしゃいました。
増島氏がお話しされている間にも、それぞれの専門分野で補いながらより深い解説をお聞かせいただきました。

伊豆半島ジオパーク推進事務局公式HPより転載
まず、三島という街を形成している大地の成り立ちを教えていただきました。2000万年前海底火山群だった伊豆半島が、フィリピンプレートに乗って約400kmも北上し、本州と合体して出来た地層に、丹沢山地の浸食による堆積物や箱根山の巨大噴火による火山灰・軽石などの堆積物、そしてたび重なる富士山の噴火による溶岩流と御殿場の土石流などにより、この地にいく層にもにわたる地層を形成しています。
つまり、伊豆半島と本州を結ぶ、三島のあたりは、元々海岸線があり、そこに丹沢山地の堆積物、箱根山などの火山からの噴出物、富士山の溶岩流、そして御殿場からの土石などで、幾重にも重なった地層によって成り立っていることがわかりました。そしてそれらが、街中に流れる湧水や境川・狩野川の流れにより、削られて高低差を生みだしています。今回のジオツアーでは、その地面の高低差を歩きながら直に感じ取るることが出来ました。
この4つの種類の石が、三島の石造物の大半を占めるのだそうです。伊豆半島が海底火山だったころの火山灰などからなる石で、現在では、沼津アルプスと呼ばれる山々の近くから採掘される、通称『伊豆石』と呼ばれるものだそうです。
石造物の必要とされる強度や用途により、それぞれ使われる石材が異なります。おおまかに分けて、石灯籠などに使われるのが、柔らかく細工しやすい長岡凝灰岩の中部層(硫黄により緑化し青みがかった石、写真左の大きな鉢)と上部層(薄褐色、写真右の台形)の石です。
大井凝灰角礫岩は、黒みがかって石粒が交じった石で、強度があり、風化しにくいので、土倉の壁などに使われました。
白色で上質とされている江の浦白色凝灰岩は、昔は、名古屋や東京に運ばれていたため、昭和の時代に入ってから、三島の地では、壁などに使われる様になりました。
いままで、史跡を訪れても、石灯籠などを見かけることはあっても、それが海底火山だったころの岩から出来ているなどと思いもよりませんでした。
三島宿はたび重なる火災と地震などの自然災害によって、多くの古文書や建築物の倒壊などが相次いだため、その歴史を伺い知ることが難しいとのことです。それでも、三島史を研究されている方々の地道な研究から、様々なことが分かってきています。
なかなか歩きださないので、本題のツアーの紹介になりませんでしたが、ここから実践編です。
集合場所になった楽寿園内が、ジオサイト(ジオの見どころ)満載なのは、楽寿園を訪ねられた方なら百も承知のことと思います。1~1.7万年前に富士山のたび重なる噴火により、地底のマグマが流出し、幾重にも層を重ね三島後に流れつき、ところどころに溶岩塚(※)を作り、また中に含まれていたガスが噴出するなどして溶岩洞穴を作り、様々な地形となって地上で大いなる大地の力を見せつけてくれます。
その他にも、富士山の様な粘性が小さく、さらさらな玄武岩質マグマが固まる際に良くできる縄状溶岩なども、その形状が良くみてとれます。
※溶岩塚とは…溶岩流の表面の部分が固まっても、内部はパイプ状になっており、末端付近の表面が押し上げられる作用により小丘となったもの
いよいよ、楽寿園の外へと歩き出しましょう。
三島の街は水の街。富士山の伏流水が、そこかしこで湧き出る素晴らしい街です。
白滝公園にある見事な形状の溶岩塚(写真右)を観ながら、例年になく水量の多い桜川沿いに、鏡池に向かいました。かつては、三嶋大社を参拝される方が、その身を清めたという鏡池は、涸れて朽ち果てていたものを、町内の方々や地元の企業の方の協働により、小さな公園として整備されました。現在では、NPO法人グラウンドワーク三島のスタッフの方々が維持管理されています。今回のツアーで伺った時は、参加されたふるさとガイドの会の方も驚くほど、こんこんと湧水が湧きだしていました。
これら街中に湧き出る湧水は、三島溶岩流のなかの隙間を通り、その溶岩が途切れた所から湧き出します。鏡池の廻りにはかつてたくさんの湧水地点がありましたが、今ではかろうじてこの鏡池と菰池公園で、水が湧き出る様を見れるにとどまります。菰池公園は『街中で湧水を満喫できる三島は、自然の宝庫』でご紹介しました。
これらの湧水の影響で、三島の地は削られ、御殿川流域は、三島の地でも非常に低い場所となっています。旧町名久保町(現在の中央町付近)は、窪地からきているという説もあります。この地形の俯瞰を、生涯学習センターの屋上から拝見することができました。
(通常は、立ち入り禁止区域です)
ツアーの最後に訪れた楽寿園脇の浅間神社には、富士登山の三島からの起点があり、やはり登山される前に身を清めたと言われている池があります。ここ最近は、湧水が枯渇していたのですが、今回訪れた際は、満々と水をたたえていました。
三島は神社・仏閣が多い街だと思っていましたが、溶岩流があったため、人があまり住めず、その様な施設が集まったということでした。
心経寺は、大宮町にあるお寺です。臨済宗妙心寺派に属し、あるとき住職が国家の平安無事を祈って三嶋大社の神前で般若心経を唱えていると、不思議なことに心経(般若心経)が空から舞降りてきたのでこの寺の名を心経寺と改めたという不思議な由来のあるお寺です。(三島アメニティ百科HPより)こちらの外壁は、『その2 岩の研究編』でご紹介した、大井凝灰角礫岩という、小石が交じった黒っぽい石でできています。中の鐘楼は、三島溶岩が使われていて、縁に刺繍のブランケットステッチの様なとても見事な細工が施されていました。
三嶋大社の境内には、御殿場泥流が運んできたという巨石の祟り石や、三島市内の中で年代の分かっている石灯籠で最古のものなどを観る事が出来ました。(その後の調査で更に古い石灯ろうが見つかりました!)三島の石灯籠などの石造物の多くは、たび重なる震災で、倒壊・修復を重ねているため、一部違う石などが使われている場合が見受けられました。造った時と、修復した時では、手に入る石もさまざまな様です。
楊原神社、三石神社、伊豆国分寺、本覚寺、長円寺など市内の史跡を巡りながら、今までとは違う角度で、観る事ができました。
また、街中にある石倉やかつての三島保健所跡の石塀など、普段気にもしなかった建物にも大地(ジオ)の恵みが見られる、三島の街は恰好のジオサイト(大地の恵みを感じ取る場所)の一つなんです。
平成21年7月に川勝静岡県知事が提唱した伊豆半島ジオパーク構想は、これらの大地の恵みを知り、守り、活用し、次世代へ伝えて行こうとするものです。
詳細は、
2012年06月16日
三島街中探検記(ジオを感じる処)
三島をよく歩かれていらっしゃる方なら、ご存じの方もいらっしゃると思いますが、街中にこんな壮大な大地のドラマの痕跡を見れる所があるのをご存じですか?
JR三島駅の南口を少し南に下った、三島商工会議所の前の二又の真ん中にある『愛染院跡の溶岩塚』(市指定天然記念物)です。(所在地:三島市一番町)
今から約1万4千年ほど前(※注1)富士山の南東麓の中腹あたりから噴出した溶岩が、愛鷹山(あしたかやま)にさえぎられ、その東側をまわり、箱根西麓との間を南下してきました。この時期の溶岩は噴出量が多く、珪酸分(けいさんぶんSiO2)の含まれる量が少なく、粘り気が少ない溶岩だったため、40~50kmも流下してきたそうです。
溶岩塚は、溶岩流の表面部分が冷えて固まり始めた時、まだ流れようとする周囲の溶岩に圧迫された結果、固まった表面の一部が押し上がって小さな丘になったもので、くり返し溶岩が堆積(たいせき)して、このような塚が形成されました。
三島溶岩の跡は、三島市内のあちこちで見られますが、主に市立公園楽寿園内や沼津市と駿東郡長泉町にある鮎壺の滝などで、見る事ができます。
街中を歩いて、大自然の息吹を感じられる三島の街を、ぜひ探検なされて下さい。
※注1 木片の放射性炭素14を用いた同位元素による年代測定には誤差があります
(みしまぽけっと ぽけっと日記2011/06/23掲載記事再録)
2012年06月06日
宇宙(そら)と大地…
昨年12月の10日の皆既月食を皮切りに、先月の21日の金環日食と続き、
何かと宇宙(そら)を見上げる機会が増えました。
それでなくとも、毎朝青い空、どんよりと曇った空、雨模様の空。
頭上を見上げると宇宙(そら)が広がっています。
ぽけ子にとって宇宙(そら)は小さい頃からの浪漫でした。
(アポロ世代ですから…)
やがて子供達が生まれ、目線が少し下がりました。
子供達を見下ろすと、そこに大地がありました。
今まで上を上を見上げていた自分が、今度は自分の足元を改めて見直す時を
迎えていたのかもしれません。
地球という一個の生命体であるかの様に、とても調和の取れた世界が広がっています。
とてもとても長い年月をかけて今の大地が造られています。
その歴史を少しずつ少しずつ知るにつれ、自分達人間が生かされていることを
思い知らされます。
今年の4月末のみしまぽけっとのリニューアルに伴い、ぽけっと日記の過去分で掲載した
記事がHP上から止むなく無くなりました。
伊豆半島ジオパーク構想関連の記事が無くなってしまったのが、非常に寂しいので、
こちらの雑記帳に少しずつ再掲載することにしました。
なにしろ、毎日バタバタ、ドタドタ走り回っているぽけ子のことですから、
いつになることやら分かりませんが、ちょこっとずつ記事を再編集し、掲載していきます。