2019年12月24日
伊豆半島の魅力再勉強武者修行中 〜長泉三島エリアその2〜

まず、長泉のエリアで見学したのは鮎壺の滝と割狐塚稲荷神社ということで、三島溶岩を上から横からそして条件が許せば下から見学できるエリアとなります。まず、鮎壺(土地の人は藍壺※といいます)の滝ですが、黄瀬川にあるかなり見応えのある滝です。JR御殿場線の「下土狩駅」から徒歩5分という好立地にあり、3年前からはバスツアーなどの立ち寄り先ともなっており、年間で3万人もの人が訪れるジオスポットとなっています。駐車場が鮎壺公園にある4台ということで、徒歩で訪れるのが駅からおすすめです。(大きな駐車場を整備する予定があるということなので、将来的にはもっと人気が出てきちゃうかもです。)
ジオサイト展望デッキからまず滝の上を見ていただくと、夏や秋などに訪れると黄瀬川の豊富な水流に圧倒され川床にある三島溶岩流の印象が薄れてしまうほどです。黄瀬川ではこの鮎壺の滝より上流には牛ケ淵や鎧ヶ淵などといった滝が多数ありますが、これは三島溶岩が一回だけの溶岩流ではなく、何度も流れてきた溶岩流によって形成されているからで、溶岩流が流れを止めたところに段差を作るので、そこに滝ができるといったことです。鮎壺の滝より下流には滝が無いのも、三島溶岩の側端にあたるからです。ここより下流が愛鷹山の斜面が伸びてきているので、溶岩が乗り上げていき、それ以上先には流れていかなかったのです。それでは散策路を通って川岸の方まで降りていってみましょう。
水量が少ない季節で運が良ければ、ゴロゴロの大きな石を(自己責任で単独では決して立ち寄らないでください)気をつけて進んでいくと、滝の裏側まで行くことが出来るのでですが、訪れた時は台風の影響もあり、水量も多く、一部岩盤に亀裂も確認されていたため、近づくことが出来ませんでした。遊歩道にある石段のところからの見学となります。水量があると滝自体は見応えあるのですが、水量が無いとジオツアーとしては見応えがあるというのは面白いですよね(笑)。
富士山のことを少し話すと、諸説ありますが四層構造で成り立っています。
(地学の世界というのは、数十万年前の地球に起こったことを解き明かしていく学問なので、後からそれまで常識とされていたことが、新事実が分かった時点で補正されるので、この様な言い方になってしまいます。)
一番下層には先小御岳火山という数十万年前から噴火している火山があり、その上には小御岳火山という火山が約十万年前まで活動していました。つまり、今の富士山の前にその土台となる複数の火山があったのです。ただ、今の富士山とは性質の異なる火山だったので、それを富士山と呼ぶのか微妙なところなので、今の富士山の下に別の富士山が埋もれていると言った方が適切なのかもしれません。ですから、今の富士山だけに注目すると今から十万年前から一万年前位まで活動した古富士火山と一万年前(5千年位は前後するらしいです!)位から現在まで活動を続けている新富士火山が富士山と言えるのかもしれません。
で、三島溶岩を噴出したのは新富士火山なのですが、一番初期の時代の噴火ということになります。この初期の噴火というのは、特殊でとにかく大量の溶岩(サラサラした粘性の弱い溶岩)を噴出した噴火でした。その後の富士山の噴火では、粘性が強くなり、こんなに遠くまで溶岩流を流すことはなくなりました。(唯一例外は青木ケ原を作った貞観の噴火)
三島溶岩は中でも最も遠くまで到達した溶岩となります。同じくらい遠くまで流れた溶岩は山梨県の大月市にある猿橋溶岩です。これほど、遠くまで流れてくるということは、短期間の噴火で流れてきたものではなく、数年、数十年かけて溶岩を流し続けてきた噴火によるものだと考えられています。一番よく似ているのはハワイのキラウエア火山です。1970年代から噴火を続けていた、昨年(2018年)溶岩の流出が止まったということで、それこそ数十年に渡って場所を変えて噴火をし、溶岩を流し続けていたということになります。ですから、薄い溶岩が何層も何層も重なっています。ですから、滝の横にある岩盤を見ていただくと、一見一つの岩の塊にみえますが、よく見ると複数(5枚程度)の溶岩が重なっていることが見て取れると思います。
鮎壺の滝のおもしろいところは、三島溶岩の側端なので、三島溶岩が流れて来る前の地面も見ることが出来ます。滝の横にある岩盤は突き出して(オーバーハング)しているのですが、水量が少ない時は滝の下(裏)まで行くことができるので、溶岩の下にある地面が見られます。地面はローム層です。ローム層というと火山起源の関東ローム層が有名ですが、土壌の区分である粘性の高い土壌で構成された地層をローム層といいます。細かい粒子の砂だったり灰だったりするものが、少しずつ地表に降り積もって堆積したもので、火山由来のものばかりではありません。中国大陸から偏西風に乗って運ばれくる黄砂なども、毎年毎年降り積もっていきます。場所によっても異なりますが、千年位かけて約5〜10cm位堆積します。その様なローム層の地面の上を三島溶岩流が流れてきました。
そして、オーバハングした辺りの下に入れば、溶岩が作りだした様々な事象を見ることもできます。例えば、溶岩樹形が何箇所かで確認できます。下から見上げると穴が何箇所か空いています。(中に直径80cm高さ数mのものも)これは熱く柔らかな溶岩流れて来た時、樹木が立っていると、その樹木に接した部分だけ急速に冷やされ、固まります。勢いがあれば樹木をなぎ倒してしまったりしますが、ゆるゆると流れた来た時は、固まってその周りを取り囲むように溶岩が流れていきます。樹木はやがて蒸し焼きとなり焼け落ちていきそこの樹木を型どった溶岩の穴だけが残るという訳です。焼け落ちる前に次の溶岩が流れてくると、その上に蓋をする様に木を型取ります。溶岩樹形自体は、サラサラとした溶岩流の場所では結構見ることができるのですが、それほど太いものでもなく、樹木が倒れず直立した形で残っているということは、流れのスピードがゆるやかで、ここが溶岩流の端であることを示すこととなります。また、溶岩樹形の中には、樹皮の模様をそのまま型取りした様に残しているものもあり、その辺りで当時どの様な樹木が生えていたかも分かるものもあります。この辺りは松の痕跡を残すものが多かったそうです。今現在では川べりに桜の木(30〜40年前位に植樹された)が植えられています。今回は滝の近くまでは行けませんが、以前別のジオツアーで来た時観察しました。勿論、ぽけ子にはその樹皮の模様まで判別できる技量はありませんが、三島溶岩の下に入って下から観察できるという経験は、滅多に出来ないので、大変興味がそそられました。昔行った時の写真が探せず掲載が出来ませんが、見つけたら後から追加するやもしれません。
吊橋があり、沼津市側にも滝全体を見渡せる場所があります。吊橋は細いですが、あまり揺れないので普通に渡れるのですが、私は高所は大丈夫なのですが、吊橋や歩道橋に滅法弱く目をつぶって小走りに渡ることが多く、ゆっくり観察できないのですが、端の途中には下を覗けるところなどもあります。(ちょっと曇ってしまっていますが、勇気のある人は覗いて見て下さい。)滝全体を見ると、地元の人たちの中には「ミニナイアガラ」(高さ9〜10m幅65m余り)と呼んでいる人もいるそうで、富士山周辺に雨が多く降ると、かなりの水量で溶岩の間から滝が落ちる姿が眺められます。ただ、多すぎると滝の景色を変えてしまうこともあります。昨年(2018年)10月の台風の後に、せり出した岩盤が崩落してしまいました。その1の記事で掲載した数年前の富士山と鮎壺の写真と見比べるとその違いをみていただけると思います。一度訪れた場所でも、時間をおいたり、季節を変えてみに来ていただくと、今見えている景色も自然の営みの中で、変わりゆくもので、滝は常に後退していくのだと感じていただけると思います。
ちなみに、鮎壺の滝から離れた右の端に流れがありますが、これは富士山からの伏流水ではありません。黄瀬川とは全く別の水となります。ここより上流の地区では、三島溶岩に覆われているため、降った雨水がほぼ地面に浸透してしまうため、耕作するのには川の水だけでは不足してしまったため、裾野市と長泉町と清水町の集落の人たちが、江戸時代の初期(1670年位)にトンネルを掘り、箱根の芦ノ湖の水を灌漑してきたものとなります。田畑で利用された水の残りがこの黄瀬川の鮎壺の滝で藍(あい)まみえたということになります。
※藍壺とは元々の地名で自然地形から名付けられた地名で、沢が合流するところを藍沢といいますが、滝のことを壺といっていたので、そこから周辺の地名は藍沢、そしてこの滝のことは藍沢の壺と呼ばれていた。(これも昔のことなので、諸説あります)
鮎壺の滝は芹沢光治良の「人間の運命」という作品にも登場します。新潮社から全7冊ということで、大作なのでぽけ子は読んでいないのですが、wikiには「ヒロイン高場加寿子のモデルとなった安生家の別荘があった場所」と解説されていました。周辺はかつては東海道線の三島駅(現下土狩駅)があり、交通の便が良かったので、別荘地としても人気の景勝地だったとのことなので、作品を読んでいただけば、大正末から昭和初期の様子を知ることが出来るかもしれません。
鮎壺の滝は、平成8年(1996年)静岡県から県の天然記念物に指定されています。
Posted by ぽけ子 at 21:18│Comments(0)
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