2012年05月04日
じいちゃんの思い出語り
ぽけ子の父親、通称“じいちゃん”は、謎の多い人物でした。
小さい頃は、おっかなくて口も聞けなかった昭和の男。
ぽけ子が幼稚園の時、突然書店を辞めて、ブラジルに渡り、絨毯商になりたい!と言い出して、母や幼稚園の園長先生に必死に留められ、やっとあきらめたこともあったり、株で大損して、家を傾けかけさせたり。
でも動物が大好きで、ちょっとおどける時もありました。
姉が嫁ぎ、兄が独立し、母が亡くなり、自然と“じいちゃん”と話す機会が増えました。

昨日“じいちゃん”の家に泊りがけで行ったとき、長年の謎の一端を語ってくれました。
勿論、随分前の話だし、ちょっと大風呂敷を広げる“じいちゃん”の話なので、どれだけ真実が語られたかは、わかりません。当時の関係者の方に確認を取った訳でも、ネットや資料で確認した訳でもありませんので、事実と違っていたら、ごめんなさい。(そっと、ぽけ子にご指摘くださいww)

“じいちゃん”は、昭和2年7月31日、東京世田谷に生まれました。
昔のことなので、兄弟も多いけれど、満州に渡ったり、腸チフスなどの病気で亡くなった方も多く、確かな兄弟の数は、ぽけ子のにはわかりません。子どもが多かったので、養子縁組の話しも舞い込んできていたようで、旗本だった士族の家から申し込まれたけど、お金が無いって聞いたので、断ったとか…
荏原第二尋常小学校、千歳中学校と進み、戦時中は、行軍や動員とかでいろいろ訓練を受けさせられたりと、嫌なことも多かった様で、あまり詳しくは語ってくれません。(苦労話をするのは、元来嫌いな人です)

“じいちゃん”は、中学校を卒業すると星新一のお父さんだった、星一氏(星製薬の社長)が創設し、理事長を務められていた、星薬学専門学校に入りましたが、2年もしない内に中退してしまいました。それからしばらくは、何をする訳でもなく、ふらふらしながら、仲間と連れ立って遊んでいたようです。
やがて、当時新橋演舞場の上に事務所をおいていた、松竹芸能というところに勤めはじめました。

そして、GHQのためのクラブなどに出演するバンドやダンサーなどの興業やマネジメントをしていたとのこと。

当時のバンドマン達は、東京駅の構内にたむろっていたので、当日の朝、足りないメンバーを集めに行ったりして、ショーに手配していたそうです。
立川のGHQ基地近くのお店に定期的に手配していた時は、東京駅から集合場所の新宿駅まで、毎日の様にタクシーを飛ばしていたので、運転手さんに「お若いのに景気が良いね!」などと持ち上げられていたそうです。
集合場所の新宿駅には、基地のジープが迎えに来ます。行き帰り送ってくれるのですが、当時は道路も舗装していなくて、それなのにスピードを出し、ホロもなかったので、冬場は寒いので帰りは遠慮して電車で帰ってくることも少なくなかったようです。
抱えていたバンドの中には、かなり有名なバンドがいたというのが、“じいちゃん”の話です。
松屋銀座がGHQに米軍販売所PX(Post Exchange)として徴用されていた頃、地下の食堂の一角で3人組のバンドがいました。
ピアノとベース、ビブラフォン(当時日本では珍しい木琴のパイプバージョンの様な楽器)だけのバンドで、「○○(じいちゃん)さん。良い音を出すバンドがいるんで、観てやってくれませんか?」と知り合いに頼まれて観に行ったじいちゃんは、気に入りその若い3人のバンドのマネジメントを手伝うことになったそうです。

左からピアノ中村八大,スーツ姿じいちゃん,ベース渡辺晋,ギター宮川協三,サックス松本英彦,女性は??,ドラム南博(じいちゃんはこの博だと言い張ってました後に俳優に…),ビブラフォン安藤八郎うん?一人サックスが多い…と言うことは、サックスの井川さんがいらっしゃる頃の写真なのか??
当時バンドの手当ては、毎月?行われたいた渋谷公会堂での審査によるバンドのランク分けがされ、そのランクと人数によって決まっていたので、3人組では手当も少なくステージ映えしないので、他に3人、ギター、テナーサックス、ドラムを加え、それでもかなりコンパクトなバンド、“Six Joes※注”が結成されました。バンド名もメンバーが6人いて、Joeという一般的なアメリカの男性の名前、特に兵士を思わせる名前を、『仲間』と意訳した意味でつけられたということでした。
(この辺がネットで調べると異なっていますが、どちらが正しいのか知るすべはありません)
ショーのオープニングは、バンドのテーマ曲“September Rain”ではじまり、エンディングにも同じテーマ曲を演るのが、お決まりだったようです。
スウィング・ジャーナル誌の人気投票で一位になったこともあった有名なバンドだそうです。
当時からベースの渡辺さんは、手を痒がっていたとか、後にサックスの井川さんがどうしてもバンド入りしたいと申し出られて、ひと時“Seven Joes”の時代があったとか、更には、笠置しずこや美空ひばりにも会ったことがあるとか。

もう一つのお抱えのバンドBlue Note Swingは、李香蘭のショーのバックもしたことがある…と、かなり眉唾の話も飛び出してきました。(信じるか信じないかは、あなた次第ですww)
今年85歳を迎える“じいちゃん”。
いつも夢を追いかけてばっかりいた“じいちゃん”
年を取ってから、子ども達の誰よりも海外に出かけていた“じいちゃん”
やっと最近は落ち着いてきたのかな?
落ち着いた“じいちゃん”は、ちょっと淋しくもあります。
そんな“じいちゃん”の破天荒ぶりを、いつも支え続けていた“ばあちゃん”(母)は、もういません。
ぜひ、皆さんもご両親が健在な内に、青春時代の話など聞いておいた方が、よろしいかと思います。
また、次回会った時、どんな話が飛び出すか、楽しみな様な、怖い様なww
いつまでも元気でいてもらいたいです。
注※渡辺晋とシックス・ジョーズは1951年結成。渡辺晋(b)、松本英彦(ts)、中村八大(P)、南広(ds)、安藤八郎(v)、宮川協三(g)。日本のジャズ・バンドの草分け的存在。
小さい頃は、おっかなくて口も聞けなかった昭和の男。
ぽけ子が幼稚園の時、突然書店を辞めて、ブラジルに渡り、絨毯商になりたい!と言い出して、母や幼稚園の園長先生に必死に留められ、やっとあきらめたこともあったり、株で大損して、家を傾けかけさせたり。
でも動物が大好きで、ちょっとおどける時もありました。
姉が嫁ぎ、兄が独立し、母が亡くなり、自然と“じいちゃん”と話す機会が増えました。

昨日“じいちゃん”の家に泊りがけで行ったとき、長年の謎の一端を語ってくれました。
勿論、随分前の話だし、ちょっと大風呂敷を広げる“じいちゃん”の話なので、どれだけ真実が語られたかは、わかりません。当時の関係者の方に確認を取った訳でも、ネットや資料で確認した訳でもありませんので、事実と違っていたら、ごめんなさい。(そっと、ぽけ子にご指摘くださいww)

“じいちゃん”は、昭和2年7月31日、東京世田谷に生まれました。
昔のことなので、兄弟も多いけれど、満州に渡ったり、腸チフスなどの病気で亡くなった方も多く、確かな兄弟の数は、ぽけ子のにはわかりません。子どもが多かったので、養子縁組の話しも舞い込んできていたようで、旗本だった士族の家から申し込まれたけど、お金が無いって聞いたので、断ったとか…
荏原第二尋常小学校、千歳中学校と進み、戦時中は、行軍や動員とかでいろいろ訓練を受けさせられたりと、嫌なことも多かった様で、あまり詳しくは語ってくれません。(苦労話をするのは、元来嫌いな人です)

“じいちゃん”は、中学校を卒業すると星新一のお父さんだった、星一氏(星製薬の社長)が創設し、理事長を務められていた、星薬学専門学校に入りましたが、2年もしない内に中退してしまいました。それからしばらくは、何をする訳でもなく、ふらふらしながら、仲間と連れ立って遊んでいたようです。
やがて、当時新橋演舞場の上に事務所をおいていた、松竹芸能というところに勤めはじめました。

そして、GHQのためのクラブなどに出演するバンドやダンサーなどの興業やマネジメントをしていたとのこと。

当時のバンドマン達は、東京駅の構内にたむろっていたので、当日の朝、足りないメンバーを集めに行ったりして、ショーに手配していたそうです。
立川のGHQ基地近くのお店に定期的に手配していた時は、東京駅から集合場所の新宿駅まで、毎日の様にタクシーを飛ばしていたので、運転手さんに「お若いのに景気が良いね!」などと持ち上げられていたそうです。
集合場所の新宿駅には、基地のジープが迎えに来ます。行き帰り送ってくれるのですが、当時は道路も舗装していなくて、それなのにスピードを出し、ホロもなかったので、冬場は寒いので帰りは遠慮して電車で帰ってくることも少なくなかったようです。
抱えていたバンドの中には、かなり有名なバンドがいたというのが、“じいちゃん”の話です。
松屋銀座がGHQに米軍販売所PX(Post Exchange)として徴用されていた頃、地下の食堂の一角で3人組のバンドがいました。
ピアノとベース、ビブラフォン(当時日本では珍しい木琴のパイプバージョンの様な楽器)だけのバンドで、「○○(じいちゃん)さん。良い音を出すバンドがいるんで、観てやってくれませんか?」と知り合いに頼まれて観に行ったじいちゃんは、気に入りその若い3人のバンドのマネジメントを手伝うことになったそうです。

左からピアノ中村八大,スーツ姿じいちゃん,ベース渡辺晋,ギター宮川協三,サックス松本英彦,女性は??,ドラム南博(じいちゃんはこの博だと言い張ってました後に俳優に…),ビブラフォン安藤八郎うん?一人サックスが多い…と言うことは、サックスの井川さんがいらっしゃる頃の写真なのか??
当時バンドの手当ては、毎月?行われたいた渋谷公会堂での審査によるバンドのランク分けがされ、そのランクと人数によって決まっていたので、3人組では手当も少なくステージ映えしないので、他に3人、ギター、テナーサックス、ドラムを加え、それでもかなりコンパクトなバンド、“Six Joes※注”が結成されました。バンド名もメンバーが6人いて、Joeという一般的なアメリカの男性の名前、特に兵士を思わせる名前を、『仲間』と意訳した意味でつけられたということでした。
(この辺がネットで調べると異なっていますが、どちらが正しいのか知るすべはありません)
ショーのオープニングは、バンドのテーマ曲“September Rain”ではじまり、エンディングにも同じテーマ曲を演るのが、お決まりだったようです。
スウィング・ジャーナル誌の人気投票で一位になったこともあった有名なバンドだそうです。
当時からベースの渡辺さんは、手を痒がっていたとか、後にサックスの井川さんがどうしてもバンド入りしたいと申し出られて、ひと時“Seven Joes”の時代があったとか、更には、笠置しずこや美空ひばりにも会ったことがあるとか。

もう一つのお抱えのバンドBlue Note Swingは、李香蘭のショーのバックもしたことがある…と、かなり眉唾の話も飛び出してきました。(信じるか信じないかは、あなた次第ですww)
今年85歳を迎える“じいちゃん”。
いつも夢を追いかけてばっかりいた“じいちゃん”
年を取ってから、子ども達の誰よりも海外に出かけていた“じいちゃん”
やっと最近は落ち着いてきたのかな?
落ち着いた“じいちゃん”は、ちょっと淋しくもあります。
そんな“じいちゃん”の破天荒ぶりを、いつも支え続けていた“ばあちゃん”(母)は、もういません。
ぜひ、皆さんもご両親が健在な内に、青春時代の話など聞いておいた方が、よろしいかと思います。
また、次回会った時、どんな話が飛び出すか、楽しみな様な、怖い様なww
いつまでも元気でいてもらいたいです。
注※渡辺晋とシックス・ジョーズは1951年結成。渡辺晋(b)、松本英彦(ts)、中村八大(P)、南広(ds)、安藤八郎(v)、宮川協三(g)。日本のジャズ・バンドの草分け的存在。
Posted by ぽけ子 at 22:40│Comments(1)
│家族
この記事へのコメント
疲れているのに、ご苦労様!でも、うれしかったんだね!だから、一気に書き上げられた!わたしにも、覚えがあるから、わかります!じいちゃん!大切にね!色々聞いて、もっと近づいてください!
Posted by yohsuke213 at 2012年05月04日 23:01