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2012年10月17日

秋深し、読書のひと時に想うこと



この間まで暑い暑いと口から思わずこぼれていたと思ったら、あっと言う間に肌寒く、朝起きるのも少し気合いをいれないと布団から抜け出られない程になりました。
秋はスポーツの秋、食欲の秋、行楽の秋と気候も良くなるせいか、いろいろ楽しめる季節ですが、ぽけ子的にはやはり読書の秋は外せません。

最近では、新刊を買って読むことより、既に手持ちの本の中から、もう一度手に取り直して読むことが多くなっています。若い頃(っと言っても十数年前位ですけどww)読んだ本が、すでに最後が分かっているのに、読み直すと違った理解生まれ、よりその本に愛着を感じることが分かってきました。

そう言いつつ、先日仕入れたこちらの本は、かなり年代物の本です。

文部省推薦児童図書 『萬葉集物語』 盛岡美子 著


昭和15年初版 昭和16年訂正版
定價金壹圓九十銭
金蘭社発行

児童向けに物語風に語られた万葉集の解説本だと思われます。(読み切っていないので、断定は出来ませんww)

   

戦争の足音が聞こえ始めた頃の本なので、文章の端々に国民色が感じられますが、挿絵の彩りも美しい本です。

(以下3点は、ぽけ子が取材した時2011年8月の写真です)



この本は、先日三島の本町にある北山書店で購入しました。以前ぽけ子が熱望し、みしまぽけっとでご紹介させていただいた古書店です。ご紹介した時も店内を本の樹海と称させていただくほど、本好きには堪らないスペースです。

その北山書店が、この11月にお店を閉じられるとのこと。
「元気の内は、書店を続けていきたい。」とおっしゃられた大正生まれのご主人が、とうとうお店を畳まれることをお決めになられた様です。



手の空いている昼休みのたびに首からお財布をぶら下げて、店内の樹海を探索していたぽけ子にとっては、とても残念なことです。

最近は、便利な電子書籍が流行っている様で、ぽけ子も何冊かデータをダウンロードして読んだりもしましたが、何故か本を読んでいても本を読んでいない、そんな気がして馴染めませんでした。場所を取るし、読みたい時に読めないけど、朝、本を一冊鞄に押し込み電車に揺られながら読むひと時、夜寝る前に布団に身体半分預けて読むひと時、それらは、電子書籍を読む時間とは、一線を画したぽけ子の本当にくつろげる時なのです。



この本を含めて数冊の本を買った時、北山書店のご主人が、「面白そうな本ばかりだね。」っておっしゃられたことが、なんだかとても嬉しかったです。

北山書店は、現在店じまいセールを開催されています。樹海の様な本の山は、随分と減ってしまいました。でも、まだまだ掘り出し物があると思いますので、ぜひお店が閉まってしまわれる前に、お出かけ下さい。

北山書店 みしまぽけっと掲載ページ →   http://www.mishima-pocket.com/shop/803/

       

Posted by ぽけ子 at 17:37 Comments( 0 ) 本のはなし

2012年10月09日

三島街中探検記番外篇 ジオツアー三島4(その3)

【大地のもたらす光と陰】


数多くの恵みをもたらす大地。しかしながら時として災いをもたらすこともあります。安政元年11月4日(西暦1854年12月23日)の寒い冬の朝(五つ半と言われているので、午前9時頃)のことです。現在、発生が危惧されている三連動地震が発生しました。安政東海地震と呼ばれる遠州灘の御前崎沖、南海トラフに沿うプレート境界を震源とするマグネチュード8.4の巨大地震です。
この地震の被害は、関東から近畿に及び伊勢湾にかけての海岸は大きな被害を受けました。さらに、津波が房総から土佐までの太平洋沿岸を襲い、被害をさらに大きなものにしたと言われています。





この地震により、鮎壺の滝近くの沼津・小林村では、土地が陥没しました。地元の人はこの時出来た黄瀬川右岸側の急傾斜地を「地震窪」と呼んでいます。崩壊の規模は、幅50間(約100m)、長さ2町(約250m)、深さ4~5丈(約12~15m)で面積は6,000余歩(約2ha)ということで、かなり大規模なものでした。



小林村の民家12軒が土砂の中に埋もれてしまいましたが、北側にあった牧堰用水路が決壊し水が流れ込んだため、救出することもできず、死者9名前後が生き埋めとなってしまいました。のちに跡地には、草木が生え、住民が植樹したため林となりました。


震災追弔之碑が明治36年に崩壊跡地に犠牲者を供養するために建てられましたが、開発に伴い西側に移築されました。
沼津では、地震によって田圃が陥没したところに津波が来て、湖になってしまったところもあり、この地震の被害の大きさを物語っています。


移築された記念碑の向かいには、道祖神(賽の神この辺では少し訛ってシャーの神)がありました。


同行されていた瀬川さん(沼津の学芸員)のお話によると、道祖神は、村の中心、村の境界や道の辻、三叉路などに石碑や石像の形態で祀られています。近世になってその姿形から良縁・安産・夫婦円満の神様に変化してきましたが、元々は二番目に悪い災い(病)をもたらせる神様だそうで、1月15日には先触れとして村を訪れ、各家々にマーキングをするのだそうです。そして、その後一番悪い災い(病)をもたらす神を案内してくると云われています。そのため災いを恐れた村人は、「尊(とうと)や尊(とうと)」とはやし立てながらその先触れである賽の神様を火にくべて、村にマーキング出来ないようしたと言われています。これが「どんど焼き」の起源だそうです。火にくべられるため、道祖神の劣化は著しかった様で、道祖神が何体も道に並んでいるのはこんな理由もあった様です。今日「どんど焼き」の風習は各地で残っていますが、お飾りやダルマを焼いたり、団子を焼いたり、失敗した書初めを燃やす行事だけではなかった様です。



【消えた溶岩塚と今も残る溶岩塚】

長泉町東部には、沢山の古墳と溶岩塚があった場所と先に述べさせていただきましたが、今日町中には溶岩塚がほとんど見られません。

溶岩塚はサラサラとした玄武岩の性質だった富士山の溶岩流が末端で冷え固まり始め、上流からの溶岩によって押され行き場の亡くなった溶岩やガスが盛り上がり、塚状になったところです。盛り上がった塚の表面は冷えているのでそれ自体の重みで割れてしまい、ひび割れを作ります。(カルメ焼きの原理に似ています)

中から熱い溶岩が流出し「縄状溶岩」ができる場合も多く、溶岩の流れる様を示す、貴重な大地の遺産です。

しかし、溶岩塚は三島溶岩を採石し易い場所です。長泉町文化センターベルフォーレの裏手には、採石場の跡が残されていました。この様に採石されたり、開発により表面を削り取られたり、宅地の下に埋もれている溶岩塚もあります。



この写真は駐車場の陰にひっそりと残る三島溶岩塚です。



度出くわした住人の方にお伺いすると、「溶岩をどけるにも大金がかかるから、そのまま上手い具合に利用して家を建ててるのよ。」とおっしゃっておられました。

庭の一部として活用されていらっしゃる住宅もありました。




文化センター裏の採石場跡の隣接した小高い山は、古墳として利用された溶岩塚です。塚の盛り上がりで陥没した場所を石室としていたのことです。

 


そして、伊豆半島ジオパークにおける東部での有数のもう一つのジオスポット割狐塚稲荷神社も溶岩塚を再利用した神社です。



御神域に鎮座する割狐岩には、むかし老狐が住みつき夜ともなると出没したと言い伝えられています。(触ると寿命が3年延びると言われているので、3回ほど触ってきました!)



南北約30m、東西約25m、高さ6mの溶岩塚で縄状溶岩が隆起した塚で逆行している様子も見てとれます。



割狐塚神社の境内に造られた長霊神社は、同じく南北約50m、東西約50m、高さ4.5mの溶岩塚で、第二次世界大戦後長泉町から出征戦死した御霊を祀った神社です。

この様に、溶岩塚が再利用されていると残されています。今では、長泉の東部にほぼ原形を残す溶岩塚は、古墳に再利用されているものと神社2か所の計3か所となっています。




  


途中静岡県の天然記念物に指定されている大公孫樹(おおいちょう)を横目に、歩いてくると、お社がありました。



願掛八幡神社と言い、創建の年代は不詳ですが、鳥居と石灯籠などの石造物に三島溶岩が利用されています。長泉町の各所で見かける石灯籠は、三島溶岩が多く、長岡凝灰岩が多用されている三島との違いが見受けられます。使われる石材の違い、駿河国と伊豆国の違いの一つとも言われています。その1でなるほど!と思った違いはコレです。ジオツアー1~3を通じて三島の石材を見て廻っていたので、石材を見て国の違いを感じるというのも、ジオツアーならではの様な気がしました。




最後に甲州街道(江戸と甲府を結ぶ街道ではなく、甲州へ向かう街道を総じてこう呼ぶ場合があるそうです)に祀られていた道祖神がジオツアー三島4の最後を締めくくってくれました。



今回のジオツアーは三島を離れたからこそ感じる三島との違いを感じ、大地がもたらすものは、恵みだけではなく悲劇をもたらすことも少なくないとしりました。だからこそ余計、大地に学び、その備えをするべきだと感じるツアーでした。

次回は11月3日にジオツアー三島5が、12月1日にジオツアー三島6が開催が予定されています。
みしまぽけっとのイベントカレンダーをご参照ください。⇒ http://www.mishima-pocket.com/calendar/
(ちなみにぽけ子は12月1日のジオツアー三島6に参加予定です。)

また個別に3人以上集まれば、土日ならば、案内人の静岡県地学会東部支部の増島先生と打ち合わせの後ツアーを開催することもできます。詳細は、みしまぽけっとのこちらのページをご参照ください。
  

2012年10月09日

三島街中探検記番外篇 ジオツアー三島4(その2)

【土狩500塚】

長泉という町は、明治22年、大岡荘・長窪地区(主に愛鷹山麓)と小泉荘(三島扇状地)の10カ村が合併して長泉村が出来ました。昭和35年には町制が施行され、「長泉町」が誕生しました。その東部は、三島扇状地上に立地するため水利に恵まれず、「土狩500塚」と呼ばれる古墳や三島溶岩塚が点在する不毛の地でした。上水道が整備され、今では住宅地の立ち並び、現在では42千人(2012年10月1日現在)余りの人々が暮らす豊かな町となっています。



新幹線のガードを潜り抜けるとそこには、古墳がありました。突然古墳が出現したので、とてもビックリしました。長泉町には旧石器時代から人々が生活しているため、町内の各所でこのような遺跡・遺物が見られます。この古墳は、長泉町の指定史跡でもある原分古墳(はらぶんこふんと呼ばれていますが、古くははらわけこふんと呼んでいました)です。墳丘の上に山の神神社が祀られ、人々に敬われていたました。(現在では、墳丘の横に移築)


7世紀中ごろのに造られた直径16m(県東部最大規模の古墳時代後期の横穴式石室を持つ)大型円墳です。道路の拡張工事で、現在の場所に移築復元されたものです。



石室は黄瀬川系の玄武岩、家形と呼ばれて屋根のある石棺(実物は移されていて同種のものが展示されています)は江之浦白色凝灰岩で出来ています。

装飾的な近畿系と実用的な関東系両系統の馬具や刀剣、遠州系須恵器などが出土しています。追葬(4体)が行われ、2世代にわたる駿東地域の有力者の墓とされています。



江之浦白色凝灰岩は、三島では昭和の時代になるまで、あまり使われることがなかった石材です。



海底で降り積もる火山灰の様子が、屋根に使われた岩の表面に見て取れることができます。



【庚申堂と帝釈堂】

古墳を後にし、住宅街を進むと、小さな庚申堂と帝釈堂があります。廃仏毀釈によりこの地にあった庚申堂が廃され、明治21年仏教色のない「教習所」が建築されました。信教の自由が認められた明治末、庚申堂は再建され、「教習所」は「帝釈天堂」となりました。

庚申信仰というのは、中国の道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとにした民間信仰で、人間は生まれた時から人間の体内にある虫(三虫さんちゅうとも呼ばれている)がいて、60日に一度庚申の日に眠ると、三尸が体から抜け出して、天帝にその人間の罪悪を告げ、その人間の命を縮めるとされていることから、庚申の夜は眠らずに過ごすようになりました。また、一人では一晩中夜を過ごすことは難しいことから、庚申講と呼ばれる集まりを作り集まって夜を過ごす様になったそうです。


     

ちなみに、この両対の石灯籠ですが、左右微妙に形が異なることにお気づきになりましたでしょうか?右側の石灯籠は、古い年代のものですが、地震などで崩れて修復する際、火袋の下の台座が天地逆に設置されてしまいました。


 

【御殿場線下土狩駅】

2002年に長泉なめり駅が開業されるまでは、長泉町唯一の鉄道駅で、開業は御殿場線が東海道線の一部であった明治31年です。当時は三島停車場(三島駅)と呼ばれ、伊豆箱根鉄道駿豆線(当時豆相鉄道)の乗り換え駅として賑わっていました。昭和9年に現在の下土狩駅に改称されましたが、昭和9年に現在の三島駅が開業し、駿豆線も撤退し、御殿場線の一中間駅となりました。近くには、文化財展示館などもあり、長泉町の歴史や民族を学べる施設もあります。




【富士の恵みをたたえる鮎(藍)壺の滝】

伊豆半島ジオパークにおける東部での有数のジオスポット鮎壺の滝は、黄瀬川の中流にある愛鷹山山麓部に乗り上げた三島溶岩末端部にかかる滝です。平成8年には、天然記念物として静岡県の指定を受けています。高さは約9m幅は約65mで、水量も豊富です。

 

 


川床に露出する溶岩は、斜長石や気泡が目立ち、三島溶岩の特徴をよく表しています。川底には、ひときわ黄色みを帯びた地層が見え隠れしています。これは愛鷹山麓を形成していた愛鷹ローム層で、この地層があったため、滝壺周辺では三島溶岩は、くの字に曲がった様に張り出しています。下層にあった愛鷹ローム層は、黄瀬川の浸食により流出し、上を覆って流れ出ていた三島溶岩だけが、その姿をとどめています。

 

 

 


上流部には、ところどころにポットホール(甌穴おうけつ)が見られます。ポットホールは、川底が固い場合、表面の割れ目など弱い部分があると、そこが水流によって浸食されくぼみとなります。このくぼみの中に礫(岩のかたまり)が入ると渦状の流れとなり、その礫が回転し丸み帯びながらくぼみを広げ、円形のくぼみを形成していくことです。この周辺では、丸くなった礫は、廃仏毀釈などで首をはねられたお地蔵様を修復する際、お地蔵さんの首として利用されたそうです。

 

 

 


三島溶岩が流れてきた年代は、滝壺脇の溶岩樹型木片の年代で、1万500年前と推定されています。溶岩樹型とは、溶岩流が樹海や森林帯を流れ下ると、樹木が溶岩流の中に閉じ込められ、木質部は消失しますが、樹木の組織(木片)や外形が溶岩流中に閉じ込められて、印されたものです。

 

 

 

ちなみにこれらの説明を伺ったのは、この吊り橋の上…高所恐怖症のぽけ子には、ちょっと足のすくむ思いでお話を伺っていました。(途中でアクリル板なんてのも配されています…。)





 

 

三島街中探検記番外篇 ジオツアー三島4(その3)へと続きます。
  

2012年10月09日

三島街中探検記番外篇 ジオツアー三島4(その1)

【再会の朝】
約1年ジオツアー参加に胸を弾ませて集合場所の楽寿園正門に行くと、ジオツアーに初めて参加された方が多いことに驚きました。同じツアーを春に開催し、昨年ツアーに参加された方はほとんどそちらに参加されていたということでした。それでも、和やかな雰囲気で総員18名のツアーが始まります。参加者の中には、お馴染みの日本大学国際関係学部の加藤先生や沼津市の学芸員瀬川さんと石川さん、三島市郷土資料館運営協議会委員長の迫田さんもいらっしゃったので、それぞれの専門分野からの興味深いお話が聞けそうです。



受付が済むと静岡県地学会東部支部の増島先生から資料と行程の説明がありました。今回は、ジオツアー1~3で見て廻った三島から、さらに飛び出して長泉にまで足を伸ばします。まずは、今年の9月伊豆半島が日本ジオパーク委員会により、日本ジオパークに認定されたことの報告がありました。(拍手!)
認定された日に、新聞各紙で取り上げられたり、三島駅の南口のロータリーに認定の大きな垂れ幕が掲げられていたので、参加者の方々もご承知の方が多かった様です。しかし、ジオパークとはなんだろう?と疑問を持たれた方も少なくありません。ジオパークは、大地の営みを知り、災害や人の暮らし、動植物とのつながりを感じ、それらを活用しながら大切に守っていこうという場所です。日本ジオパークネットワークの公式HP(http://www.geopark.jp/)内のジオパークに関する説明の中に、一番分かりやすい言葉で書かれています。
「地球を丸ごと考える場所、それがジオパークです。」
ジオツアーと観光、今までのガイドツアーとのちがいを、改めて増島先生が説明してくれました。
例えば、石灯籠を見たとします。普通の観光は…「これは江戸時代に、中にろうそくなどを入れて、夜明かりを照らすために使われました。」。今までのガイドツアーならさらに…「これは、慶長7年に作られた石灯籠で、この台石の形にその特徴が表れています。」。でも、ジオツアーならさらに…「これは、長岡凝灰岩、通称「伊豆石」と呼ばれてる岩で作られていますね。伊豆半島が海底火山だった頃に降り積もった火山灰が海底で地層となった岩で出来ています。川などを使って運んできた様で、三島の石造物は、この岩が多く使われています。その後度重なる地震で、倒壊し修復を繰り返したので、火袋の所だけ違う石材で作りされていますね。」などと、より当時の人の暮らしぶりと歴史の流れを感じさせるものになります。
一点の説明ではなく、広がる空間とそこに流れる時間とを感じさせてくれるジオツアー、いよいよ歩き出します。


【国境のある場所で】
JR三島駅南口の前の通り、御幸通りを西に向かいます。ちなみにこの御幸通りは、昭和5年に昭和天皇が、三島停車場(現下土狩駅)から三島高等女学校(現静岡県立三島北高等学校でその当時は、現在順天堂大学看護学部がある場所にあった)まで御幸されるために作られた道路です。昭和天皇をお迎えするため、当時の女学生は袴姿で、停車場までお迎えに上がったそうです。
伊豆箱根鉄道駿豆線の線路を超えてすぐのところに、一級河川境川の起点があります。



建久6年源頼朝が奈良東大寺大仏供養の帰途、黄瀬川宿で領地の訴訟(そしょう)を聞き、この川を伊豆国と駿河国との国境に定めたことから、境川と名付けられたと言われています。三島は伊豆国、長泉は駿河国だったのです。このことは、何となく知っていたのですが、今回のツアーで「なるほど!」と思わせることがありました。(それは後のお楽しみ…)




今では、住宅の間を流れる小さな流れですが、それを聞いて眺めると別の風景が頭の中をよぎります。


少し分かりにくい五又の交差点をクランクしながら進んで行くとその道路は以前、駿豆線が走っていた線路の敷地だそうです。それが証拠に、途中の雨降川にかかる小さな橋の横に煉瓦の壁がありました。明治時代の煉瓦の橋で、この上に線路が敷かれていたそうです。



三島街中探検記番外篇 ジオツアー三島4(その2)へと続きます。