2013年03月20日
ジオサイト守山(自然と歴史) その③

いよいよ守山登頂を目指します。登頂といっても標高101.8m。
守山西公園口から登られるのが一般的なルートですが、今回は真珠院の近くの守山南東の登り口から出発です。
登り口を少し行くと杖となる木があります。下る予定の道が少し悪路となるということで、一本ずつお借りしました。
守山も伊豆半島が海底火山だった頃活動した火山(白浜層群の火山)です。北西は狩野川の影響が少ないため、凝灰岩が分布していますが、この南東部は狩野川の浸食で柔らかい凝灰岩が削られ、大仁にある城山同様に凝灰岩層を貫いた安山岩の岩石(火山の根っこ、マグマの通り道)が見られます。
そして、増島さんも不思議がられていらっしゃいましたが、守山で多く見られたのが、溶岩の冷却時の収縮で生じる節理が柱状ではなく、(その②でご紹介した真珠院御堂裏の溶岩写真の様な)板状節理でした。この山が生まれた時、どの様なドラマがあったのか、今後の専門家の方の見解が待たれます。
やっと守山西公園口から続く遊歩道に合流します。階段が整備され、歩きやすい道となります。途中、もう何も書かれていない看板が放置されていました。眼下に街が眺められそうなのに、ちょっと残念です。
分かれ道があり、別ルートの遊歩道があるようですが、今回は頂上を目指します。久しぶりの山登りの足にも、優しい全体で20分少々の登山でした。
頂上には三角点があり、増島さんのお話では、明治の頃の測量に比べ1・5mも上昇しているということで、当時の測量技術のせいか、はたまた本当に隆起しているかは不明です。
眺めは…最高ですね。沼津アルプス、富士山、蛇行する狩野川、箱根、多賀火山、田方平野の広がり。一望にできます。
そして、少しお腹が鳴りました(笑)。
お昼を食べながら、増島さんが近くに生えている木を指して、ウバメガシだと説明してくれました。山全体にはアラカシという静岡県の低山に広く分布する木が多く見られるが、「縄文海進」時に進出したウバメガシが山頂部や南斜面に純林に近い状態で分布しているとのことです。
縄文海進?またまた不勉強なぽけ子は分かりません。
約259万年前から現在に続く新世代第四紀は、大陸氷河が発達し海面が低下する氷期と、大陸氷河が溶け海面が上昇する間氷期が繰り返されているそうです。現在に最も近い氷期は約2万年前で、海面は現在より100m以上下がっていたそうです。
そして、1.2万年前から6千年前(縄文時代草創期~早期)温暖化に伴う著しい海面上昇で、田方平野は海没していました。この温暖期を縄文海進と呼びます。海没?田方平野は海になっていたの?
今回のツアーで増島さんがご用意してくれた資料の中の縄文海進自の海域を見ると三島も伊豆の国の平野部も『古狩野湾』と呼ばれる海の中です。
それが証拠に、守山に隣接する静岡県立伊豆就航高校建設時に地下20~30cmの土から地学部員が貝化石(シオヤ貝、ヒメカニモリ貝など)を大量に採取したそうです。その多くは、今では紀伊半島以南、暖かな海に生息するものでした。
備長炭の原料として知られているウバメガシも暖かい地方の海岸部から山の斜面にかけて多く見られる海岸林を構成する代表的な樹木です。守山周辺がかつて海岸であったことを裏付けています。今では田畑やビニールハウス、人々の暮らすこの田方平野が暖かで穏やかな内湾であったとは…。やはり、ジオツアー参加するたびに新たな感動が味わえます。
お腹もいっぱい、感動もいっぱいになった頃、いよいよ下山します。ここに来るまでに少し時間をかけすぎてしまったので、遊歩道ではなくあまり整備されていない、守山八幡宮へと直接下るルートを辿ります。こちらの道は悪路で、標識もないので地元の方にご案内してもらって下さい。あえて、詳しいルートは記載しません。しかし、このルートを辿ると昔の石切り場らしき跡を数々見ることが出来ます。
下った所で、杖としてお借りした木を戻すところがあるので、今でも地元の方はこちらを上り下りされていらっしゃるのかもしれません。
守山八幡宮は、大化5年(699年)創建平安末期に現地へ遷とも言われています。本殿の裏には、見事な板状節理が見られます。
そして、約200段近い階段を下りると、秋に伊豆半島の各地で行われている五穀豊穣祈念の舞、三番叟(さんばんそう)が行われるためか、立派な舞殿もあります。他にも、源頼朝が似仁王の令旨を受け取った際に、守山を拝したと伝えられて、頼朝挙兵の碑があるそうです。(見忘れてしまいました…。)
2013年03月20日
ジオサイト守山(自然と歴史) その②
守山に向かう途中、国道136号を超えて、ちょっと入ったあたりに、『伝・政子産湯の井戸』と『伝・堀越御所跡』があります。
政子産湯の井戸は昭和30年代頃までは水が湧いていたそうですが、今は水は湧いていないそうです。詳しい調査が進んでいないのですが、古くからある井戸であることから、政子達も使ったのではないかということで、伝の文字がついているそうです。
堀越御所跡は、室町幕府8代将軍の足利義政が関東を将軍直轄領とするため、弟の政知を派遣するのですが、鎌倉に入れずこの地に館を構え堀越公方と呼ばれたそうです。その子茶々丸が跡を継ぎましたが、北条早雲により急襲され、堀越公方が滅亡し、「戦国時代」が幕を開けたとのことです。
狩野川が見えてきました。丁度この辺は、狩野川の中流の中でも最も河道が狭い狭窄部とされていて、狩野川台風の折、狩野川が氾濫した原因の一つであるとされています。この場所からはちょっと見にくいのですが、南南西方向の伊豆の国市墹之上(ままのうえ)に狩野川放水路があります。沼津市の口野とを結ぶ全長2980m、流量は2000m3/毎秒、氾濫防止のショートカット水路です。狩野川の氾濫が予想される大雨の際、水門が開けられます。そのたびに江の浦湾の魚養殖に被害を出し、補償金を支払うこととなりますが、この放水路の存在は、狩野川流域の人々の暮らしを守っています。
そして、いよいよ守山公園横に歩を進めると、北条館跡です。
こちらは、囲いだけはありますが、看板も整備されていません。堀越御所跡もフェンス等を張り巡らせて保全されていますが、理由はわかりませんが、観光用として整備されることなくあまり知られていません。ただ空地が広がっている様に見えます。狩野川の氾濫を避けるため、日当たりが悪い北向きに館が建っていたとされ、幾度となく建て替えられていたとされています。
北条とはもとはこの辺の地名だったそうで、田方平野は肥沃な農耕地であったので、古くから条里制が敷かれており、現在の伊豆長岡駅あたりは、南条郷と呼ばれていたそうです。そして、この北条の地に館を構えた北条氏は、源頼朝を擁護し、鎌倉幕府の創立に尽力し、後は執権を握る等時代の舞台を飾りましたが、鎌倉幕府滅亡の後は、徐々に勢力を失っていったそうです。
歴史にお詳しい方はご存知だと思いますが、北条早雲は韮山に居城を構えた戦国時代の武将ですが、北条氏とは縁もゆかりもないそうです。北条の名も、早雲自体は名乗ることなく、伊勢家が北条姓を称したのは盛時の嫡男・氏綱からだそうです。通例として、伊勢盛時も遡って北条早雲と呼ばれているそうです。
何を採取されているのかと思えば、ノビルでした!
そして、守山の周囲を廻りこみ静岡県立伊豆中央高校の手前の古川のほとりを進みます。
真珠院です。室町時代に先述した“堀越公方”こと足利政知が創ったといわれ、県内最古の五輪塔(「定仙大和尚塔」1302年の号あり、安山岩)と八重姫の伝説が残る寺院です。
八重姫の伝説とは…
伊豆・蛭が小島に配流された源頼朝の監視役としては、北条時政とともに伊東祐親が命じられた。八重姫は伊東祐親の娘で、伊藤祐親不在の内に頼朝と結ばれ千鶴丸をもうけたが、祐親が戻り平家への恩義と娘への愛との葛藤の末、八重姫を館へ連れ帰り、まだ幼き千鶴丸を水に沈めました。頼朝は北条の館へ逃れましたが、八重姫は頼朝を忘れられず、六人の侍女を連れ北条の館へ訪れますが、頼朝は自分の姪にあたる政子と契りを結んでおり、ひと目会うことも叶いませんでした。愛する人のもとにも、伊東祐親のもとにも戻れず、守山南麓を流れる狩野川に注ぐ支流にあった激流渦巻く真珠ケ淵に、「吾は不幸にしてこの世を去るも、魂は長くこの土に留まって女人の守護神とならん…」と誓願を込め、梛(なぎ)の一枝を手折って身を投じたとのこと。六人の侍女たちも帰路の大仁田中山の近くで自害し、女塚が残っている。
真珠院には、八重姫を供養するために供養塔が建てられ、梛の枝が手向けるために木が植えられ、せめて梯子があれば救えたものをと手作りの小さな梯子を供えて供養した梯子供養の習慣が今も続いています。昭和47年の七夕豪雨により損壊しましたが、地元有志によりここに再建された御堂の前には、願掛け石があり、縁結びと子授けの神として親しまれているそうです。頼朝は政略的な意味もあって監視役二人の娘と契りを結んだとの説もありますが、真実は歴史のベールに包み隠されています。(なんか、ちょっと今までの頼朝像と変わって来たなぁ。)
御堂の裏手には板状溶岩が見られます
2013年03月17日
ジオサイト守山(自然と歴史) その①
3月16日(土)、久々にジオツアーに参加してまりました。
今までのジオツアー三島と同様、静岡県地学会東部支部増島さんのご案内で、ぽけ子の地元伊豆の国市のジオサイト守山周辺の史跡群と、先月27日国宝の指定について答申が提出された願成就院の運慶作諸仏像を訪れる一日の始まりです。
午前10時に伊豆箱根鉄道韮山駅に集合したのは、案内人の増島さん、郷土資料館の鈴木さん、伊豆の国市歴史ガイドの迫田さんを含めた総勢20名。配られた資料の説明を受けます。
本日訪れる守山は、ぽけ子もよく子どもを連れてハイキングしに来た狩野川のほとりにあるこじんまりした山です。最近は整備され、とても歩きやすくなっており、今からの時期は狩野川の土手沿いに桜が咲き乱れ、沢山の方がお花見に訪れます。(桜まつりも開催されます。3/23~4/14)
守山の周辺は平安末期から鎌倉、室町、戦国時代へと続く様々な史跡が観られる伊豆の国市の代表的な歴史観光のスポットの一つでもあります。ジオサイトとしての見どころとは!?
守山の周囲に広がっているのは『田方平野』、伊豆の穀倉地帯としても有名な狩野川の沖積地が広がっています。韮山駅からちょっと歩いて、田方平野の田圃の中に立つと、まだ伊豆半島が南の海の海底火山だったた頃の火山の名残り(守山、城山、葛城山やその西側一帯の沼津アルプス)、陸化し始めた頃の火山(天子火山)、半島化しはじめた頃に活動が盛んだった山々(天城山系や多賀火山)とぐる~っと見渡すだけで、伊豆の大地の歴史を垣間見れるのです。
そして、その田方平野を貫き、本州の太平洋側で唯一北流する川『狩野川』。
現在の川より東側に流れがあり、しかも度々流れを変えたり、一本ではなくところどころに中洲の様な島(蛭ケ小島もその頃は中洲だったかも?)をもつ川で、かつては10年に一度の割合で洪水を引き起こして、暴れ川として名高い川でした。1958年(昭和33年)には、狩野川台風の影響で伊豆半島だけで死者・行方不明者が853人という甚大な被害がもたらされました。そして、その教訓を生かし、兼ねてより工事を進めていた『狩野川放水路』を完成させ、人々はその自然災害を乗り越えようとしています。
ジオが語るのは、大地の物語とそこに暮らす人々の生活との関わり。うん、充分楽しめそうです。
さぁ、前置きが長くなりましたが出発しましょう。
2013年03月10日
思い立ったが吉日!国清寺 その③へ
-国清寺塔中あった鳳林庵にいらしたお地蔵様(歯痛・安産の仏様)-
さすがにふらふらと国清寺への道順で回を重ねるのも申し訳ない…
ぽけ子の旅はそんなんばっかで、道草ばかり。
気になるものを写真におさめたり、中を覗いたり、人がいたら話しかけたりと、中々目的地に辿り着かないのが常。
いよいよ、天狗の伝承と国清汁発祥の地、国清寺(天長山国清萬年禅寺)。
国清寺の参道の前に佇んだ時の第一声は…
「でっけぇ~。なるほどなぁ~。」
見上げる空の天高く、どこまでも伸びる杉の巨木。
あのてっぺん位に天狗が降り立っていたのかなぁ。
しかし、空が青いなぁ。
しばらく、口を馬鹿みたいに開いて見上げてしまいました。
そして、一兆が天狗に降ろされた釈迦堂(仏堂)。
数段の石段を上り先に進むと、本堂と赤い屋根の庫裏。
数段の石段を上り先に進むと、本堂と赤い屋根の庫裏。
本堂には座禅会の文字。
あとで友達に聞いたところにはよると、毎週土曜日朝6時半~座禅会をしているそうです。
座禅を組んだ後はお経を上げ、お茶をいただいて8時に解散とのこと。
伊豆の国市の史跡のほとんどは、派手な看板や史跡を盛り上げるお店などはありません。
大抵地味な感じで、田圃の外れや民家の近く、交通の便が悪いところも少なくありません。
だけど、その当時のことを感じるには最善の場所かもしれません。
目をつぶると…かつていたかもしれない天狗の羽ばたく音。
悪たれ坊主たちの遊ぶ声。
鳥たちの囀(さえず)り。
田圃を抜けてわたる風が、杉の枝をゆする音。くしゅん…失礼、花粉症なもんで(笑)。
ちなみに、国清寺の参道には200本以上の紫陽花が植えられています。
ご住職曰く「紫陽花は日陰に映える花。参道の樹齢数百年の杉の巨木の間からさす木漏れ日や梅雨のもやが紫陽花をより趣深くしています。」(2006年伊豆の国市市民カレンダーの説明分より)
紫陽花の見ごろは6月15日頃。今はまだ新芽が付き始めた位で、とてもとてもその光景を頭に描くことは難しい。やっぱり、季節の頃また伺いたくなりました。
国清寺(天長山国清萬年禅寺)
静岡県伊豆の国市奈古谷68
大きな地図で見る
2013年03月08日
思い立ったが吉日!国清寺へ その②
運動公園の看板の先には、ビニールハウスが連なっています。
多分アレだろうなぁ…と思いつつ覗いたハウスの中は、案の定今が盛りの苺!
伊豆の国市だと5月の連休位まで栽培されています。
栽培時期がおわったら、脇芽(ライナー)をこんな容器に入れてまた来シーズンに備えます。
苺かぁ…運動公園の入り口に直売場があったけ。
このビニールハウスで作られたものなのかな?
今日はお財布にワンコイン500円しか入っていないから、また今度ね(笑)。
そう言えば、今日はお天気が良いのに富士山が見えないなぁ。
富士山が見えたら最高なのに…とか思いながら、毘沙門川を渡ると奈古谷地区。
JAのガソリンスタンドの前には数軒飲食店が並んでいます。
なんか良い感じのお寿司屋さんも見つけたので、今度寄ってみることがあったら、機会をみてご報告いたします。
東海バスの奈古谷待合所です。トタンの色褪せた感じが雰囲気ありますよね。
息子の通う小学校へもこの地区の子ども達も通っています。市で自主運行しているバス通学になるので、子ども達はここで待ち合わせるのかな?
今では中学校を卒業する娘の奈古谷地区の同級生の顔が浮かびます。
栗林を抜けて、この辺からは坂道がきつくなり、立ち漕ぎでヨロヨロと進むのですが、そろそろ限界ぃー!ってところで、酒屋さん。
「韮山江川酒」?!そんなお酒があったのか…。本当に地元のこと知らな過ぎるなぁ。でも、また調べたいものが見つかった。(ワクワク)
こんなちっ小ちゃなポスト可愛いなぁ…
平成10年3月末に閉校された奈古谷分校の跡地に設置された韮山生涯学習センター。
裏手に廻るとその面影を感じます。
そして、その向かいには非常に気になる建物が…。
看板の書体も古めかしい「韮山書房」。本屋さんじゃないよねぇ。
気になるなぁ…。人陰もなく、お話しを聞くこともっできないなぁ。
イヤイヤ今日の目的の国清寺!
「次回また調べてから来ることにしよう!」と思いながら、自転車のペダルを踏み込みます。
ここからは道なりに少し南に向かいます。
思ったより長くなってしまったので、あと一回お付き合いを(笑)
2013年03月07日
思い立ったが吉日!国清寺へ その①
お昼を食べたぽけ子。今日は良い天気だし、洗濯物も取り込んだ。平日の休みなので子どもっちの帰宅にもまだ時間はある。昼寝をするのは、ちょいと勿体ない。
さすればカメラ片手に、お気に入りの「おいしい炭酸水レモン味」をリュックに詰め込んで、チャリにまたがります。ばぁばに「ちょっと出かけてくるよぉ。小1時間位!」と声をかけ出発です。
まずは、伊豆箱根鉄道駿豆線の原木駅へと向かいます。
ここをスタートとして、ご説明するのが一番分かりやすい様です。原木駅を出たら、線路沿いに長岡方面へと進みます。右手に自転車置き場を眺めて、畑の横の小路を行けば、踏切が見えてきます(イヤ、最前より見えている筈)。
この踏切を渡れば、あとはもうひたすら一直線。東の山並みに向かってズンズンいきます。



チャリを漕ぐ足が止まります。アッ! 山羊?! そう言えば自分の母親も、子どもの頃は家に山羊がいて、山羊の乳を鼻をつまんで飲まされたって言ってたっけ…ひと昔前は、山羊って普通に農家にはいたんだよなぁ。



なかなか目的の国清寺には辿り着かない、寄り道だらけのぽけ子の旅は、まだまだ続きます。
さすればカメラ片手に、お気に入りの「おいしい炭酸水レモン味」をリュックに詰め込んで、チャリにまたがります。ばぁばに「ちょっと出かけてくるよぉ。小1時間位!」と声をかけ出発です。
まずは、伊豆箱根鉄道駿豆線の原木駅へと向かいます。
ここをスタートとして、ご説明するのが一番分かりやすい様です。原木駅を出たら、線路沿いに長岡方面へと進みます。右手に自転車置き場を眺めて、畑の横の小路を行けば、踏切が見えてきます(イヤ、最前より見えている筈)。
この踏切を渡れば、あとはもうひたすら一直線。東の山並みに向かってズンズンいきます。
足元には、蒼い小さなお星さまの様なオオイヌフグリ。
子どもの頃に遊んだペンペン草。
春の七草にも数えられる赤紫の可憐な花を咲かせるホトケノザ。
まだまだ寒い日が続きますが、確実に春の足音が近付いて来ている様です。
チャリを漕ぐ足が止まります。アッ! 山羊?! そう言えば自分の母親も、子どもの頃は家に山羊がいて、山羊の乳を鼻をつまんで飲まされたって言ってたっけ…ひと昔前は、山羊って普通に農家にはいたんだよなぁ。
狩野川の支流堂川を越えると金物屋さんを発見!お店はそんなに広く感じないけど、後ろの倉庫や砂利置き場はひろいなぁ。うわっ、ライン引きやこんな灰皿まであるぅ!
ちょっと先の道端にはセキレイ。セグロセキレイかな?!三島じゃなんか珍しかったけど、この辺では結構いるなぁ。そんなに遠くないのになぁ。

まだまだ真っ直ぐ進んでいくと、韮山運動公園の入り口の看板。
今は体型的に走れない旦那が、昔ソフトボールをやっていたのでよく赤ん坊の娘を抱っこして来たっけ…。山の上にあるから車がないと不便なんだよね。まぁ、運動公園だから車を運転する様な人が行くんだろうけど。
(この写真だけ昔家の庭にいつの間にか生えてきたムカゴの写真)
そう言えば、グランドの脇の林でムカゴ(零余子、山芋の葉の付け根に出来る小さな球芽で塩ゆでしたり、ご飯に炊いたりすると美味しいんです。)、まだ採れるのかなぁ??
などと感傷に耽りながら真っ直ぐな道を進みます。
なかなか目的の国清寺には辿り着かない、寄り道だらけのぽけ子の旅は、まだまだ続きます。
2013年03月06日
天狗伝説の国清寺 その②
さてさて、どこか分からない山の中で、大きな身体の天狗達に囲まれた一兆。やっと、天狗にさらわれて、山奥に連れてこられたことに思い当たりました。

さすれば臆病者の一兆。天狗の声が聞こえなくなれとばかりに、耳を手でふさぎ野原に座り込むと、声の限りに泣き叫びます。
「ウェーン!ウェーン!!天狗になるのは、イヤじゃぁー。ウェーン!」
それからの一兆は、三日三晩、夜も昼も構いなく、食うものも食わずに泣き続け、しまいには涙も声も枯れ果ててしまいました。
さしもの天狗達もこれにはほとほと参ってしまい、
「こんな泣いてばかりの弱虫では、天狗などにはなれはしまい。」と笑い出した。
そして、一人の天狗が一兆に近づいて、「おいっ!臆病者、早く目をつむれ。寺に帰してやる。」と言うと、一兆を掴み上げ天高く舞い上がった。しばらく飛んでいたかと思うと、おもむろに一兆は降ろされました。
その頃、国清寺では一兆が神隠しにあったと大騒ぎ。みなで捜し廻り、女衆は仏様にお祈りしておりました。
「ウェーン!ウェーン!!怖いよぉ~。高いよぉ~。」
という泣き声に、みな驚き外に飛び出して釈迦堂の大屋根を見上げると、高い屋根の上で降りるに降りれない一兆が、棟に必死でしがみついて大声で泣いていました。和尚たちは、提灯のあかりをたよりにようやく一兆を降ろすことが出来ました。
一兆はその後、心を改めて仏の道に一信になり、修行のかいあって立派な和尚となり、同じ奈古谷にある高岩院の住職に収まったとさ。めでたし、めでたし。
以上、「天狗にさらわれた一兆」(『伊豆の民話集』勝呂弘編 長倉書店刊)を多少省略・脚色してお届けしました。
国清寺には、他にも幾つか天狗にまつわる伝承があり、その中には明治37・8年年ころ、日露戦争の戦場旅順に行って日本のために戦ってくれた天狗の話しもあります。この天狗が去った後は、天狗が国清寺に現れることがなくなったとか。
(フム…割と最近のことなんだなぁ。)
かつて天狗がいたお寺、国清寺。ぽけ子宅から歩いて4・50分で行ける距離とのこと。ならば、行ってみたくなるのが、世の情け(ってあんまり関係ないかぁ。)
次回は、突然思い立った国清寺行きへと続きます(笑)。

さすれば臆病者の一兆。天狗の声が聞こえなくなれとばかりに、耳を手でふさぎ野原に座り込むと、声の限りに泣き叫びます。
「ウェーン!ウェーン!!天狗になるのは、イヤじゃぁー。ウェーン!」
それからの一兆は、三日三晩、夜も昼も構いなく、食うものも食わずに泣き続け、しまいには涙も声も枯れ果ててしまいました。
さしもの天狗達もこれにはほとほと参ってしまい、
「こんな泣いてばかりの弱虫では、天狗などにはなれはしまい。」と笑い出した。
そして、一人の天狗が一兆に近づいて、「おいっ!臆病者、早く目をつむれ。寺に帰してやる。」と言うと、一兆を掴み上げ天高く舞い上がった。しばらく飛んでいたかと思うと、おもむろに一兆は降ろされました。
その頃、国清寺では一兆が神隠しにあったと大騒ぎ。みなで捜し廻り、女衆は仏様にお祈りしておりました。
「ウェーン!ウェーン!!怖いよぉ~。高いよぉ~。」
という泣き声に、みな驚き外に飛び出して釈迦堂の大屋根を見上げると、高い屋根の上で降りるに降りれない一兆が、棟に必死でしがみついて大声で泣いていました。和尚たちは、提灯のあかりをたよりにようやく一兆を降ろすことが出来ました。
一兆はその後、心を改めて仏の道に一信になり、修行のかいあって立派な和尚となり、同じ奈古谷にある高岩院の住職に収まったとさ。めでたし、めでたし。
以上、「天狗にさらわれた一兆」(『伊豆の民話集』勝呂弘編 長倉書店刊)を多少省略・脚色してお届けしました。
国清寺には、他にも幾つか天狗にまつわる伝承があり、その中には明治37・8年年ころ、日露戦争の戦場旅順に行って日本のために戦ってくれた天狗の話しもあります。この天狗が去った後は、天狗が国清寺に現れることがなくなったとか。
(フム…割と最近のことなんだなぁ。)
かつて天狗がいたお寺、国清寺。ぽけ子宅から歩いて4・50分で行ける距離とのこと。ならば、行ってみたくなるのが、世の情け(ってあんまり関係ないかぁ。)
次回は、突然思い立った国清寺行きへと続きます(笑)。
2013年03月05日
天狗伝説の国清寺 その①
伊豆の国市の北東の外れの奈古谷地区にある名刹国清寺は、伊豆の国市観光協会のページから全文引用すると…
関東十刹 天狗伝説と国清汁発祥の寺
1362(貞治元)年、室町幕府の有力者・畠山国清(はたけやまくにきよ)が創建したとされ、1368(応安元)年関東管領の上杉憲顕が本格的な寺として修築した寺です。
最盛期には子院78、末寺300を擁する壮大な伽藍となり、室町幕府3代将軍足利義満の時には関東十刹(じっさつ/関東の十の大きなお寺の六番目)に加えられました。仏殿には、鎌倉時代慶派の作による釈迦如来像が安置され、境内には、開基・開山の墓や、旧楓林庵の子育て地蔵などが残されています。
この寺を舞台とした天狗にまつわる伝説が3つも伝えられていて、「天狗にさらわれた一兆さん」は特に著名です。一兆和尚は実在の人物で、後に塔頭の高岩院住職となりました。また、今でも建長汁と共に、修行僧が食べている国清汁(こくしょうじる)はこの寺が発祥の地です。
伊豆の国市観光協会の該当ページ⇒ ( http://www.izunotabi.com/jpn/see/2009/03/-1-56.html )
とのこと…。天狗?!天狗伝説がわが町に?!
ぽけ子の好奇心の食指がピクピクと動きました。天狗って、あの鞍馬にいらっしゃる天狗だよね。「天狗にされらわれた一兆さん」ってそんなに有名な伝説なのかぁ。またまた、インターネットで検索してもなかなか当のお話の内容が見当たりません。
次なる手段は図書館です。FMいずのくにのスタジオ建設中の韮山文化センター韮山時代劇場には韮山図書館( http://www.city.izunokuni.shizuoka.jp/tosyo/shisetsu/kyoiku/010.html )が、併設されています。
地元のことは地元で調べる!これ正解です。
伊豆の民話集(勝呂弘編 長倉書店刊)という本を探すことができました。

あらすじは(本当はぜひご自分で本を借りて読んでいただきたいのですが…)、一兆という国清寺の小坊主さん、悪たれ小僧で近所の子供たちと遊ぶのに夢中で、お勤めに身が入りません。
和尚さんは、心の広い人だったのでいつか真面目にお経をあげる様になってくれるだろうと見守っていました。
そしてこの一兆、あくたれ小僧の割に臆病者で、怖い夢を見たと言っては泣き、恐ろしい話しを聞くとブルブル震えていたそうな。
ある晩、夜中に目を覚ました一兆は、ビクビクしながら厠へ向かい、膝をガクガクさせながら用を足して部屋に戻ろうとしたところ、「おい、小僧!ちょっと待て!」と呼び止められた。
声も出ないで震えていると、大男に庭へと引きずり出された。
「おおっ、可愛い小坊主だぁ。俺たち天狗の仲間にしょう。」っと天狗達に囲まれてしまいました。
「いいか?!絶対目を開けるなよぉ!」っと言い放つと天狗は一兆を掴んで空高く舞い上がった。
やがて、どこか分からない山の野原に降ろされ、また天狗達に囲まれてしまった。
「やいやい!おまえ、天狗になれ!!」と口々にはやし立てられた一兆。
その運命は如何に?!長くなったので、続きは次回に(笑)
2013年03月04日
国清汁から国清寺へ
ぽけ子はただいま、4月開局予定のFMいずのくにのパーソナリティ候補生として、日夜勉強中です。パーソナリティとして話す練習にも、地元伊豆の国市の良さをと思い、地元の名物を探していました。
地元の方は、もうご存知の方もいらっしゃると思いますが、郷土食「国清汁(こくしょうじる)」と言うものをご存知ですか?
伊豆の国市奈古谷地区にある国清寺を発祥とし、600年余りもの歴史のある精進料理の一つで、今では全国の精進料理のお店や禅宗寺の料理として供されています。

平たく言うと鎌倉の建長寺発祥の「けんちん汁」の味噌ヴァージョンです。地元でも調理する方が少なくなり、その保存と普及のために「国清汁研究会」なるものが平成14年に発足されています。
今では、市内の小中学校の給食にも出されているので、うちの伊豆っ子である娘と息子は、よく知っていました。息子に至っては、生野菜は苦手ですが、この具沢山の汁はお気に入りの一品だそうです。
詳しい作り方などは、インターネットで検索すると見つけられるかと思いますが、簡単に記しておくと、大根や人参、牛蒡、芋(里芋でもじゃが芋でも可)、椎茸を食べやすい大きさに切り、ごま油で炒め、それをかつお節と昆布、干し椎茸で丁寧にとったお出汁と米とぎ汁で伸ばし、野菜に出汁がしみ込んだら味噌を溶き入れ、木綿豆腐を崩して加えて煮込めば出来上がり。
この「国清汁」を実際作ってその感想を話せば面白いかな?って思っていたのですが、実際、ぽけ子はそんなに丁寧にお出汁を取ったことがありません。(恥ずかしながら…)
いつもの通り、だしの素で代用したところ、野菜だけにしてはコクがあるのですが、あまりに想像通りの味だったので、これでは面白くありません。
きちんとお出汁を取ってこその味の広がりや米のとぎ汁やごま油を加えることで味わえるコクと深みを存分に味わうには、ぽけ子の調理技能では難しいと思い知りました。
ちなみに伊豆の国市には、この「国清汁」を味わえる場所が何か所かあるそうです。
ぽけ子が調べた中では以下の2か所です。
駒の湯源泉荘 http://www.komanoyu.jp/ (※イベント時に提供、詳細は電話で問合せて下さい)
伊豆とろろ家 http://izutororoya.com/
っと言うことで、この「国清汁」を調べるにあたり、その発祥の地伊豆の国市奈古谷にある名刹国清寺も少し調べさせていただきました。調べれば調べるほど、興味深いお寺なんです。

長くなったので、そのお話しは次回のお楽しみとさせていただきます(笑)。
地元の方は、もうご存知の方もいらっしゃると思いますが、郷土食「国清汁(こくしょうじる)」と言うものをご存知ですか?
伊豆の国市奈古谷地区にある国清寺を発祥とし、600年余りもの歴史のある精進料理の一つで、今では全国の精進料理のお店や禅宗寺の料理として供されています。

平たく言うと鎌倉の建長寺発祥の「けんちん汁」の味噌ヴァージョンです。地元でも調理する方が少なくなり、その保存と普及のために「国清汁研究会」なるものが平成14年に発足されています。
今では、市内の小中学校の給食にも出されているので、うちの伊豆っ子である娘と息子は、よく知っていました。息子に至っては、生野菜は苦手ですが、この具沢山の汁はお気に入りの一品だそうです。
詳しい作り方などは、インターネットで検索すると見つけられるかと思いますが、簡単に記しておくと、大根や人参、牛蒡、芋(里芋でもじゃが芋でも可)、椎茸を食べやすい大きさに切り、ごま油で炒め、それをかつお節と昆布、干し椎茸で丁寧にとったお出汁と米とぎ汁で伸ばし、野菜に出汁がしみ込んだら味噌を溶き入れ、木綿豆腐を崩して加えて煮込めば出来上がり。
この「国清汁」を実際作ってその感想を話せば面白いかな?って思っていたのですが、実際、ぽけ子はそんなに丁寧にお出汁を取ったことがありません。(恥ずかしながら…)
いつもの通り、だしの素で代用したところ、野菜だけにしてはコクがあるのですが、あまりに想像通りの味だったので、これでは面白くありません。
きちんとお出汁を取ってこその味の広がりや米のとぎ汁やごま油を加えることで味わえるコクと深みを存分に味わうには、ぽけ子の調理技能では難しいと思い知りました。
ちなみに伊豆の国市には、この「国清汁」を味わえる場所が何か所かあるそうです。
ぽけ子が調べた中では以下の2か所です。
駒の湯源泉荘 http://www.komanoyu.jp/ (※イベント時に提供、詳細は電話で問合せて下さい)
伊豆とろろ家 http://izutororoya.com/
っと言うことで、この「国清汁」を調べるにあたり、その発祥の地伊豆の国市奈古谷にある名刹国清寺も少し調べさせていただきました。調べれば調べるほど、興味深いお寺なんです。
長くなったので、そのお話しは次回のお楽しみとさせていただきます(笑)。