2012年10月09日
三島街中探検記番外篇 ジオツアー三島4(その3)
数多くの恵みをもたらす大地。しかしながら時として災いをもたらすこともあります。安政元年11月4日(西暦1854年12月23日)の寒い冬の朝(五つ半と言われているので、午前9時頃)のことです。現在、発生が危惧されている三連動地震が発生しました。安政東海地震と呼ばれる遠州灘の御前崎沖、南海トラフに沿うプレート境界を震源とするマグネチュード8.4の巨大地震です。
この地震の被害は、関東から近畿に及び伊勢湾にかけての海岸は大きな被害を受けました。さらに、津波が房総から土佐までの太平洋沿岸を襲い、被害をさらに大きなものにしたと言われています。
この地震により、鮎壺の滝近くの沼津・小林村では、土地が陥没しました。地元の人はこの時出来た黄瀬川右岸側の急傾斜地を「地震窪」と呼んでいます。崩壊の規模は、幅50間(約100m)、長さ2町(約250m)、深さ4~5丈(約12~15m)で面積は6,000余歩(約2ha)ということで、かなり大規模なものでした。
移築された記念碑の向かいには、道祖神(賽の神この辺では少し訛ってシャーの神)がありました。
同行されていた瀬川さん(沼津の学芸員)のお話によると、道祖神は、村の中心、村の境界や道の辻、三叉路などに石碑や石像の形態で祀られています。近世になってその姿形から良縁・安産・夫婦円満の神様に変化してきましたが、元々は二番目に悪い災い(病)をもたらせる神様だそうで、1月15日には先触れとして村を訪れ、各家々にマーキングをするのだそうです。そして、その後一番悪い災い(病)をもたらす神を案内してくると云われています。そのため災いを恐れた村人は、「尊(とうと)や尊(とうと)」とはやし立てながらその先触れである賽の神様を火にくべて、村にマーキング出来ないようしたと言われています。これが「どんど焼き」の起源だそうです。火にくべられるため、道祖神の劣化は著しかった様で、道祖神が何体も道に並んでいるのはこんな理由もあった様です。今日「どんど焼き」の風習は各地で残っていますが、お飾りやダルマを焼いたり、団子を焼いたり、失敗した書初めを燃やす行事だけではなかった様です。
【消えた溶岩塚と今も残る溶岩塚】
長泉町東部には、沢山の古墳と溶岩塚があった場所と先に述べさせていただきましたが、今日町中には溶岩塚がほとんど見られません。
溶岩塚はサラサラとした玄武岩の性質だった富士山の溶岩流が末端で冷え固まり始め、上流からの溶岩によって押され行き場の亡くなった溶岩やガスが盛り上がり、塚状になったところです。盛り上がった塚の表面は冷えているのでそれ自体の重みで割れてしまい、ひび割れを作ります。(カルメ焼きの原理に似ています)
中から熱い溶岩が流出し「縄状溶岩」ができる場合も多く、溶岩の流れる様を示す、貴重な大地の遺産です。
しかし、溶岩塚は三島溶岩を採石し易い場所です。長泉町文化センターベルフォーレの裏手には、採石場の跡が残されていました。この様に採石されたり、開発により表面を削り取られたり、宅地の下に埋もれている溶岩塚もあります。
この写真は駐車場の陰にひっそりと残る三島溶岩塚です。
丁度出くわした住人の方にお伺いすると、「溶岩をどけるにも大金がかかるから、そのまま上手い具合に利用して家を建ててるのよ。」とおっしゃっておられました。
庭の一部として活用されていらっしゃる住宅もありました。
文化センター裏の採石場跡の隣接した小高い山は、古墳として利用された溶岩塚です。塚の盛り上がりで陥没した場所を石室としていたのことです。
そして、伊豆半島ジオパークにおける東部での有数のもう一つのジオスポット割狐塚稲荷神社も溶岩塚を再利用した神社です。
御神域に鎮座する割狐岩には、むかし老狐が住みつき夜ともなると出没したと言い伝えられています。(触ると寿命が3年延びると言われているので、3回ほど触ってきました!)
南北約30m、東西約25m、高さ6mの溶岩塚で縄状溶岩が隆起した塚で逆行している様子も見てとれます。
割狐塚神社の境内に造られた長霊神社は、同じく南北約50m、東西約50m、高さ4.5mの溶岩塚で、第二次世界大戦後長泉町から出征戦死した御霊を祀った神社です。
この様に、溶岩塚が再利用されていると残されています。今では、長泉の東部にほぼ原形を残す溶岩塚は、古墳に再利用されているものと神社2か所の計3か所となっています。
途中静岡県の天然記念物に指定されている大公孫樹(おおいちょう)を横目に、歩いてくると、お社がありました。
願掛八幡神社と言い、創建の年代は不詳ですが、鳥居と石灯籠などの石造物に三島溶岩が利用されています。長泉町の各所で見かける石灯籠は、三島溶岩が多く、長岡凝灰岩が多用されている三島との違いが見受けられます。使われる石材の違い、駿河国と伊豆国の違いの一つとも言われています。その1でなるほど!と思った違いはコレです。ジオツアー1~3を通じて三島の石材を見て廻っていたので、石材を見て国の違いを感じるというのも、ジオツアーならではの様な気がしました。
最後に甲州街道(江戸と甲府を結ぶ街道ではなく、甲州へ向かう街道を総じてこう呼ぶ場合があるそうです)に祀られていた道祖神がジオツアー三島4の最後を締めくくってくれました。