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2013年03月20日

ジオサイト守山(自然と歴史) その③



いよいよ守山登頂を目指します。登頂といっても標高101.8m。
守山西公園口から登られるのが一般的なルートですが、今回は真珠院の近くの守山南東の登り口から出発です。



登り口を少し行くと杖となる木があります。下る予定の道が少し悪路となるということで、一本ずつお借りしました。
守山も伊豆半島が海底火山だった頃活動した火山(白浜層群の火山)です。北西は狩野川の影響が少ないため、凝灰岩が分布していますが、この南東部は狩野川の浸食で柔らかい凝灰岩が削られ、大仁にある城山同様に凝灰岩層を貫いた安山岩の岩石(火山の根っこ、マグマの通り道)が見られます。

そして、増島さんも不思議がられていらっしゃいましたが、守山で多く見られたのが、溶岩の冷却時の収縮で生じる節理が柱状ではなく、(その②でご紹介した真珠院御堂裏の溶岩写真の様な)板状節理でした。この山が生まれた時、どの様なドラマがあったのか、今後の専門家の方の見解が待たれます。

 

やっと守山西公園口から続く遊歩道に合流します。階段が整備され、歩きやすい道となります。途中、もう何も書かれていない看板が放置されていました。眼下に街が眺められそうなのに、ちょっと残念です。



分かれ道があり、別ルートの遊歩道があるようですが、今回は頂上を目指します。久しぶりの山登りの足にも、優しい全体で20分少々の登山でした。

 

頂上には三角点があり、増島さんのお話では、明治の頃の測量に比べ1・5mも上昇しているということで、当時の測量技術のせいか、はたまた本当に隆起しているかは不明です。



眺めは…最高ですね。沼津アルプス、富士山、蛇行する狩野川、箱根、多賀火山、田方平野の広がり。一望にできます。
そして、少しお腹が鳴りました(笑)。



お昼を食べながら、増島さんが近くに生えている木を指して、ウバメガシだと説明してくれました。山全体にはアラカシという静岡県の低山に広く分布する木が多く見られるが、「縄文海進」時に進出したウバメガシが山頂部や南斜面に純林に近い状態で分布しているとのことです。
縄文海進?またまた不勉強なぽけ子は分かりません。
約259万年前から現在に続く新世代第四紀は、大陸氷河が発達し海面が低下する氷期と、大陸氷河が溶け海面が上昇する間氷期が繰り返されているそうです。現在に最も近い氷期は約2万年前で、海面は現在より100m以上下がっていたそうです。



そして、1.2万年前から6千年前(縄文時代草創期~早期)温暖化に伴う著しい海面上昇で、田方平野は海没していました。この温暖期を縄文海進と呼びます。海没?田方平野は海になっていたの?
今回のツアーで増島さんがご用意してくれた資料の中の縄文海進自の海域を見ると三島も伊豆の国の平野部も『古狩野湾』と呼ばれる海の中です。
それが証拠に、守山に隣接する静岡県立伊豆就航高校建設時に地下20~30cmの土から地学部員が貝化石(シオヤ貝、ヒメカニモリ貝など)を大量に採取したそうです。その多くは、今では紀伊半島以南、暖かな海に生息するものでした。
備長炭の原料として知られているウバメガシも暖かい地方の海岸部から山の斜面にかけて多く見られる海岸林を構成する代表的な樹木です。守山周辺がかつて海岸であったことを裏付けています。今では田畑やビニールハウス、人々の暮らすこの田方平野が暖かで穏やかな内湾であったとは…。やはり、ジオツアー参加するたびに新たな感動が味わえます。

 



お腹もいっぱい、感動もいっぱいになった頃、いよいよ下山します。ここに来るまでに少し時間をかけすぎてしまったので、遊歩道ではなくあまり整備されていない、守山八幡宮へと直接下るルートを辿ります。こちらの道は悪路で、標識もないので地元の方にご案内してもらって下さい。あえて、詳しいルートは記載しません。しかし、このルートを辿ると昔の石切り場らしき跡を数々見ることが出来ます。



下った所で、杖としてお借りした木を戻すところがあるので、今でも地元の方はこちらを上り下りされていらっしゃるのかもしれません。



 

守山八幡宮は、大化5年(699年)創建平安末期に現地へ遷とも言われています。本殿の裏には、見事な板状節理が見られます。

そして、約200段近い階段を下りると、秋に伊豆半島の各地で行われている五穀豊穣祈念の舞、三番叟(さんばんそう)が行われるためか、立派な舞殿もあります。他にも、源頼朝が似仁王の令旨を受け取った際に、守山を拝したと伝えられて、頼朝挙兵の碑があるそうです。(見忘れてしまいました…。)   

Posted by ぽけ子 at 23:05 Comments( 0 ) 伊豆の国

2013年03月20日

ジオサイト守山(自然と歴史) その②



守山に向かう途中、国道136号を超えて、ちょっと入ったあたりに、『伝・政子産湯の井戸』と『伝・堀越御所跡』があります。



政子産湯の井戸は昭和30年代頃までは水が湧いていたそうですが、今は水は湧いていないそうです。詳しい調査が進んでいないのですが、古くからある井戸であることから、政子達も使ったのではないかということで、伝の文字がついているそうです。
堀越御所跡は、室町幕府8代将軍の足利義政が関東を将軍直轄領とするため、弟の政知を派遣するのですが、鎌倉に入れずこの地に館を構え堀越公方と呼ばれたそうです。その子茶々丸が跡を継ぎましたが、北条早雲により急襲され、堀越公方が滅亡し、「戦国時代」が幕を開けたとのことです。

狩野川が見えてきました。丁度この辺は、狩野川の中流の中でも最も河道が狭い狭窄部とされていて、狩野川台風の折、狩野川が氾濫した原因の一つであるとされています。この場所からはちょっと見にくいのですが、南南西方向の伊豆の国市墹之上(ままのうえ)に狩野川放水路があります。沼津市の口野とを結ぶ全長2980m、流量は2000m3/毎秒、氾濫防止のショートカット水路です。狩野川の氾濫が予想される大雨の際、水門が開けられます。そのたびに江の浦湾の魚養殖に被害を出し、補償金を支払うこととなりますが、この放水路の存在は、狩野川流域の人々の暮らしを守っています。

そして、いよいよ守山公園横に歩を進めると、北条館跡です。
こちらは、囲いだけはありますが、看板も整備されていません。堀越御所跡もフェンス等を張り巡らせて保全されていますが、理由はわかりませんが、観光用として整備されることなくあまり知られていません。ただ空地が広がっている様に見えます。狩野川の氾濫を避けるため、日当たりが悪い北向きに館が建っていたとされ、幾度となく建て替えられていたとされています。
北条とはもとはこの辺の地名だったそうで、田方平野は肥沃な農耕地であったので、古くから条里制が敷かれており、現在の伊豆長岡駅あたりは、南条郷と呼ばれていたそうです。そして、この北条の地に館を構えた北条氏は、源頼朝を擁護し、鎌倉幕府の創立に尽力し、後は執権を握る等時代の舞台を飾りましたが、鎌倉幕府滅亡の後は、徐々に勢力を失っていったそうです。

歴史にお詳しい方はご存知だと思いますが、北条早雲は韮山に居城を構えた戦国時代の武将ですが、北条氏とは縁もゆかりもないそうです。北条の名も、早雲自体は名乗ることなく、伊勢家が北条姓を称したのは盛時の嫡男・氏綱からだそうです。通例として、伊勢盛時も遡って北条早雲と呼ばれているそうです。



何を採取されているのかと思えば、ノビルでした!
そして、守山の周囲を廻りこみ静岡県立伊豆中央高校の手前の古川のほとりを進みます。

 

真珠院です。室町時代に先述した“堀越公方”こと足利政知が創ったといわれ、県内最古の五輪塔(「定仙大和尚塔」1302年の号あり、安山岩)と八重姫の伝説が残る寺院です。

 

八重姫の伝説とは…
伊豆・蛭が小島に配流された源頼朝の監視役としては、北条時政とともに伊東祐親が命じられた。八重姫は伊東祐親の娘で、伊藤祐親不在の内に頼朝と結ばれ千鶴丸をもうけたが、祐親が戻り平家への恩義と娘への愛との葛藤の末、八重姫を館へ連れ帰り、まだ幼き千鶴丸を水に沈めました。頼朝は北条の館へ逃れましたが、八重姫は頼朝を忘れられず、六人の侍女を連れ北条の館へ訪れますが、頼朝は自分の姪にあたる政子と契りを結んでおり、ひと目会うことも叶いませんでした。愛する人のもとにも、伊東祐親のもとにも戻れず、守山南麓を流れる狩野川に注ぐ支流にあった激流渦巻く真珠ケ淵に、「吾は不幸にしてこの世を去るも、魂は長くこの土に留まって女人の守護神とならん…」と誓願を込め、梛(なぎ)の一枝を手折って身を投じたとのこと。六人の侍女たちも帰路の大仁田中山の近くで自害し、女塚が残っている。

 

真珠院には、八重姫を供養するために供養塔が建てられ、梛の枝が手向けるために木が植えられ、せめて梯子があれば救えたものをと手作りの小さな梯子を供えて供養した梯子供養の習慣が今も続いています。昭和47年の七夕豪雨により損壊しましたが、地元有志によりここに再建された御堂の前には、願掛け石があり、縁結びと子授けの神として親しまれているそうです。頼朝は政略的な意味もあって監視役二人の娘と契りを結んだとの説もありますが、真実は歴史のベールに包み隠されています。(なんか、ちょっと今までの頼朝像と変わって来たなぁ。)




御堂の裏手には板状溶岩が見られます
  

Posted by ぽけ子 at 09:16 Comments( 0 ) 伊豆の国